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ハローワーク事業の「民間開放」は慎重に

 今朝の朝日新聞「私の視点」欄に、興味深い記事が載っていた。

 筆者は菅野和夫明治大学教授(労働法)である。

 

 5月の経済財政諮問会議で、ハローワーク内に民間事業者による職業紹介窓口を設け、官民のどちらがサービス的に優れているかを競わせる案が了承された。

 そのことについての論考だが、以下はその要旨である。

 

 

・国際労働機関(ILO)は、長年職業紹介事業を国の機関に委ね、民間業者の介入を厳しく制限してきたが、近年になって労働市場の求人者と求職者の適合機能の強化のため、民間事業者の人材サービスの範囲を広げてきた。わが国でも99年に職業安定法の大改正が行なわれた。

 

・こうした状況下では国の職業安定機関は、民間では採算の合わない就職困難者へのセーフティネットの役割を果たすことが重要になる。実際に高齢者・フリーター・ニート・障害者・生活保護受給者・母子家庭の母といった、「社会的弱者」がハローワークを頼りにしている。

 

・ところが今回の諮問会議案は、このような「弱者である就職困難者」という典型的ハローワーク利用者を試験対象としている。こうした「弱者である就職困難者」を就職させるには、現実には一般の求職者に比べて時間も手間も掛かるうえ、もうけも薄いから、民間事業者が就職困難者の就業に意欲を燃やすとは考えにくい。むしろ就職しやすい求職者をつまみ食いするサービスになるおそれがある。

 

・今回の諮問会議案は、官の事業に民間の手法を持ち込めば何もかもうまくいくという楽観論に頼ることなく、「民が参入することによって起こりうる危機的状況に対する安全策を講ずる」ための試金石とすべきだ。

 

 

 主張には私も全面的に賛成であるが、あえて言うなら例示がやや不完全である感じがする。

 フリーターは、雇用形態が不安定であるからという理由で広義の弱者と言えなくもないが、ニートは「Non Employment, Education and Trainning」の略だから、ある意味「好んで就業しない者」とも言えるし(むしろ精神的な病理を抱えたひきこもりのほうが弱者に近い)、生活保護受給者は「健康で文化的な最低限度の生活」は継続的に保障されていて、ただちに就職困難による生活の困窮に直面しているわけではないから、やはり就職環境における「弱者」とは言えない。

 フリーター・ニート・生活保護受給者といった人たちは、たしかに社会的環境における弱者ではあるが、就職をめぐる環境の中では必ずしも絶対的な弱者であるわけではない。だから「社会的弱者」と「就職における弱者」とは、分けて考える必要がある。

 そして就職における弱者のうち、筆者の例示から抜け落ちている存在が「前科者(ぜんかしゃ)」である。

 

 あまり知られていないが、ハローワークには「専門援助」という部門がある。

 雇用保険法や職業安定法のプロフェッショナルである北村庄吾のどの著作を見ても、専門援助に関する記述はないから、一般にはかなり知名度が低いと思われる。

 専門援助は一般の求職者に比べて、職業相談やキャリアコンサルティングなどの面で、個別に手厚い就労援助を受けることができる(ケースワーク方式という)。

 雇った側にもメリットがあり、障害者の雇用者は「特定雇用開発援助金」として賃金の一部を一定期間支給される一方、前科者の就職に協力する協力事業主は、「雇い入れたものが金を持ち逃げした」等の被害に遭った場合には、矯正協会から被害を弁償される。

 専門援助は第一部門と第二部門に分かれていて、第一は「高齢を理由として就職困難である高齢者」、第二は「外国籍の者、身障者手帳を持つ身体障害者、前科者」をその対象としている(ただし案内板には「外国籍の方、障がいのある方」となっているだけである)。

 特別援助部門では、就職促進指導官が求職者に対して援助を行なう一方、雇用指導官が事業所に対して、障害者や高齢者の職場開拓、雇用指導、助言を行なっている。

 

 なかでも前科者への就労援助は、紹介者に高い守秘義務を要求するという点において、やはり民間にはそぐわないと思う。

 また民間事業者を参入させるということは、「官と民を自由競争下に置く」ということだが、自由競争下に置くということは「利潤追求(=コスト削減)を第一目的とする」ということでもある。

 先に書いたように、就職困難者への職業紹介はたいへん非効率的であって、利潤追求(=コスト削減)のための効率化とは対極にあると言える。

 だからその意味で、筆者も指摘するように民による職業紹介は「就職しやすい者から就職させる」という、およそ「公共」からは遠く離れたものになってしまうのではないか。

 

 「民間にできることは民間に」とは、たしかに構造改革の重要な柱であることには違いないが、こと職業紹介事業については、安易に民間事業者を参入させるべきではないと考える。

 

宮沢喜一元首相が死去、87歳

 宮沢喜一元首相が亡くなった。

 私がその衰えようを見て驚き、ブログの記事を書いたのは 2006年の1月末だから、それから1年半も経つ。

 

 余談だが宮沢政権が誕生したとき、その英語力が堪能であることをとって、ある地方紙は「真に国際的な政治家の誕生だ」と、宮沢氏を祭り上げた記事を書いた。

 その新聞は小泉政権のときには徹底的に悪口を書きまくっていたから、なんのことはない、単に新聞社が宮沢派と親密だっただけのことだ。

 

 ご冥福をお祈りします。

とてもじゃないが信用できない

 義家弘介は言う。

  

(以下は5月9日付  アサヒコム から引用)


道徳教育は子どもが携帯を持つ前に ヤンキー先生が指摘


 道徳教育は子どもが携帯電話を持つ前に――。政府の教育再生会議のメンバーで「ヤンキー先生」として知られる義家弘介氏が9日、国会内で講演し、こう強調した。

 6月初めにまとまる同会議の第2次報告では、「子どもと携帯」も論点の一つになりそうだ。


 義家氏は携帯が普及し、ネットへの接続サービスが始まった1999年を「日本が連綿と守ってきた教育の形が崩壊した年」と指摘。

 「大人が情報を分別して有害なものを子どもから遮断できた時代から、子どもが直接、携帯から『出会い系』『自殺奨励』などの有害サイトに触れられる時代になった」と説明した。

 

 そのうえで義家氏は「子どもが携帯を手にする前、0歳から10歳くらいまでに、道徳心をたたき込まなくてはならない。それ以後は、どんな道徳の教えも意味をなさない」と断言。

 幼児~小学校低学年での道徳教育の重要性を強調するとともに、道徳の「教科化」の必要性も訴えた。

 

 

 携帯が教育を崩壊させた諸悪の根源と言っているが、この男は自分がほんの少し前にやったことを忘れたのだろうか。

 子ども相手に携帯で悪ふざけをしていたのは、ほかならぬ自分ではないのか?

 

 

 本当にこの男は信用できない。

ただのお調子者に他ならない。



 さっきニュースで言っていたが、義家ごときが「最後の隠し玉」なんだそうだ(笑)。

 丸山弁護士も自民から出馬する必然性を問われて口ごもっていたし、参院選に立つ確たるポリシーはない。

 国民もそこまでバカではない。

 別に私は反自民でも親民主でもないが(あえて言うなら無党派である)、義家や丸山氏が国会議員となることは、国益に反すると思う。

 

 まだこの国から政権交代のダイナミズムが消えていないとして、とりあえず政権政党となるのは民主党だ。

 宙に浮いた(消えた)年金や、松岡農水相の疑惑を弁明しないままの自殺、拙速な改憲論議、度重なる強行採決への反発などで、いま民主には強烈な追い風が吹いている。 

 今夏、自民が負けて民主が勝つかどうかは、民主が政権政党を目指す意気込みをここで見せられるかどうかに掛かっているだろう。

やっぱりやりやがった

 やっぱりやりやがった。

 義家弘介が自民から参院比例区に出馬 するそうだ。

 

 これで「SMAP×SMAP」や「Sma Station!!」で唐突にいじめ特集が組まれた理由 が明らかになった。

 

 やはり、いじめを食い物にしていたのは政府自民党だった。

 すべては義家が教育再生会議担当室長に任命されたときから、決まっていた筋書きだったのだろう。

 

 ただ、もう私の義家弘介に対する評価は定まっている。

 再三書いたとおり、信用できないである。

もはや死に体の安倍内閣

 安倍首相は松岡農水相が自殺した直後、搬送先の病院での会見で「たいへん安らかな顔をしておられた」と述べた。

 
 少し考えれば分かることだが、閣僚を途中で投げ出さざるを得ず、またその人生を途中で終えざるを得なかった人が、心安らかであるはずがない。

 無念の一言に尽きるのではないか。それとも、死んで楽になったとでも言いたかったのだろうか。

 思えば安倍首相は、伊藤一長前長崎市長が狙撃された直後の記者会見でも、他党党首が「言論に対するテロは絶対に許さない」という声明を相次いで出す中、「捜査機関の厳粛な捜査を待ちたい」と他人事のようなことを言って、批判を浴びていた。

 
 やはり少しピントがずれているというか、この人に正確に国民の声を反映できるのだろうかという疑問を持つのは、私だけではあるまい。

 
 「美しい国」というのは、「自他共に命を尊重する国」でもあるはずだ。その美しい国づくり内閣から、自殺者が出た。

 今まで並べてきた言葉の数々が、とても空疎なものに聞こえる。
 その意味で、参院選挙を待たず、もはや安倍内閣は死に体なのではないだろうか。

表と裏

 なんだかとんでもないブログ を見つけてしまった。

 さりとて特別なブログではない。ごく一般的な人が、ありふれた経験を書いていると言ってもいいだろう。

 

 「呪いの杖」という一文がある。

 足が不自由な筆者が電車で空いている席に座ろうとしたところ、50がらみの年配者がむりやりにそこへ座ってしまった。

 腹立ちを覚えた筆者は、自分がついている杖でもって、一撃を加えられないかと考える。

 全体重を掛けて、電車の揺れに任せて最大限の一撃を加えられないだろうか?

 これは、相手に対する「しつけ」でもあるのだ…。

 

 それに対して、批判的なコメントがつく。

 いくらマナーが悪くても、暴力を用いるべきではない。言葉で諭すべきだ。

 故意か偶然か分からないようなやり方で相手にダメージを与えるような方法は、卑怯で姑息である。

 

 それに対して筆者は、コメントの削除やアクセス禁止などの措置を取る。

 コメンターは、「www」などの記号を使って挑発し、執拗に書き込みを続ける。

 このコメンターの正体とは……。

 

 別のコメントに示されたリンクをたどると、このコメンターの正体に行き着く。

 正体と背景とを知った途端、私は慄然とした。

 

 筆者はIT企業勤務ながら、オーケストラのマエストロの経験もあり、会社でもそこそこ出世しているようだ。

 しかし、人間というのは、つくづく複雑で怪奇な「表と裏」の表情を持っているものだと思った。

当然

 長期不法滞在していたものの、「子どもたちは全員日本で育ち、長期にわたって生活実態がある」などとしてビザを求めていたが最高裁で敗訴したイラン人一家が、進学のために在留特別許可を得た長女を除いて帰国した

 

 まぁ、当然でしょう。

 

 いくら日本に生活実態があって、子どもたちが日本語しか話せないといっても、こんなことが許されるならイミグレーションは何のためにあるんだという話になってしまう。

はぁ……

 某番組で、「9男6女の大家族」というのを観た。

 あれはいったい何なのだろう?

 

 猫じゃあるまいしボコボコボコボコ子どもを生んで、家の中は散らかり放題でめちゃくちゃで、ドーナツを2つ取ったといえば殴り合いになり、姉は意味もなく弟の頬を張り、子どもたちはお金がないから中学を出たら働きに出ている(前にも書いた覚えがある。私は多分苛立っているのだ)。

 家の中では四六時中、誰かが泣くかわめくか怒鳴るかしている。それはしばしば暴力を伴い、弱い者が理不尽に犠牲になる。

 破られた襖は直される気配がなく、昼食はきょうだいの誰かが小遣いで買ってきたハンバーガー。

 これを劣悪な環境と言わずして、ほかに何と言うのだろうか。

 もはや人間の家族の情景などではない。修羅だ。

 

 父親は多くの子どもを遺して、ポックリ死んだようだ。

 生活が変わった形跡はないから、生命保険にも入っていなかっただろう(ちなみに仏壇はなくタンスの上が仏壇代わりだった)。

 格差社会の中で、子どもを育てるための資金が心配であるばかりに「子どもを持たない」という選択をする夫婦も増えているのに、いったい何を考えていたのだろう?

 

 この劣悪な環境で育った子どもたちは、あまりまともとは言えない人生を送っている。

 当たり前だ。こんな劣悪な環境の中でまともな人間が育つわけがない。

 長女は中学卒業後、家計を助けるために昼は清掃の仕事をして夜は水商売。その後妻子ある男の子どもを宿し、後先考えず生む。その後別の男と結婚をするが、その男との間の次男が生まれると直後に離婚。しかもその子は、高熱を出したとかで障害を持つ(大方、医者に掛けるのが遅れたのだ)。

 次男に手が掛かりきりだから、仕事は辞めた。働かずに食っていけるわけはないから、福祉の世話になっているのだろう。

 男のきょうだいの1人は、中学でグレ始め、児童自立支援施設に入所する。

 きょうだいの別の1人は、知的障害者である。

 ほかにもできちゃった結婚だとかなんだとか、3世代の間にはそんな話がゴロゴロしている。

 

 ナレーションは言う。「長女の人生の前半は苦労の多いものだったが…」。

 何と言うか、この家族はしなくてもいい苦労をわざわざ選んでいる感じだ。

 本能だけで生きているのだろうか。


 この家族では唯一高校に進んだ娘が、汚い言葉を吐く。

 「夢じゃねえ! ばっかじゃねえ!」 

 別の中学生の娘が言う。

 「愚痴るんじゃねえよ。カメラ回ってんだよ」

 稼ぎ頭の息子が汗水たらして稼いできた金を母親は「ご苦労さま」の一言もなく受け取り、娘が支払いに追われているというので母親が用立てた10万円を、娘は「ありがとう」の一言もなく受け取る。

 何かが、どこかが狂っている。


 人間は、ここまで堕ちることができるのだろうか。
 番組を観ている間じゅう、私はこみ上げるため息と吐き気とを抑えることができなかった。

 インドのスラムじゃあるまいし、これが日本の光景なのか?

 

 当たり前だが、子どもたちが悪いわけではない。

 大人が悪いのだ。

 それぞれの親には、それぞれの事情があるだろう。子育てにともなう経済力や体力、精神力などだ。

 そうした事情によっては、3人欲しいところを1人で我慢したり、子どもが欲しいところを持たなかったりする。

 それをサカリのついた猫じゃあるまいし、ボコボコボコボコ考えもせずに生んだ挙句がこの有様だ。

 

 目を疑う私に、さらにナレーションが覆いかぶさる。

 母親の50歳の誕生パーティーのようだ。

 「い~い子どもたちに育ちましたね。おかあさん」。


 はぁ……………。

 

 つくづく、ビッグダディはすごい人だ。

「集落」=「世間」≠「コミュニティ」。

 だいたい離島の集落で「敬老会」などという行事が、98回の長きにわたって営々と執り行われているということが異様だとは、誰も思わないのだろうか。大人たちは総出で会場を設営し、老人たちは総出で正装で着飾って出かけて行き、子どもたちは総出で催し物を披露する。

 

 こうした環境下では、おじいちゃんおばあちゃんよかったねと、家の中でひっそりと個人的に敬老を祝うことは、決して許されない。「敬老会」への参加こそが、「集落=世間」に忠誠を示していることの証とされるからだ。

 そしてあたりまえだが不参加に対しては、共同体からの「村八分」という制裁がある。

 

 離島の集落の敬老会の夜には、祝うほうにも祝われるほうにも、厳粛なしきたりがある。

 祝われる側は「三膳」なる縁起物の料理を作って出迎えなければならないし、祝う側は祝儀を持って訪問し、その出された三膳を、それぞれ意味づけのある順序どおりに、正しく食べなければならない。

 

 住民は「年間を通してほかにも行事がいろいろと多い」と言っていたが、こうした風習はまったくのところ共同体の結束を強めるための「儀式」にほかならないものだ。そしてその特殊性と排他性をもって集団内部の結束を強めているという点で、実は暴走族の集会と本質的には変わるところがない。違うところは「掟」を破ったときの制裁が、リンチか村八分かということぐらいだ。

 

 ただこうした「儀式」は、この先2つの点でおのずから崩壊していく可能性がある。

 ひとつは財政が立ち行かなくなった自治体が、Iターンのような制度を作って自らを外部に対して開いた結果内部の風通しがよくなり、共同体に変質が起きること。つまり異なる価値観を持った他者の参入で、今までのものと他者が持ち込んで来たものとの間での文化比較が起こり、自分たちの慣わしが不合理なものであったと気づき、自然消滅すること。

 そしてもうひとつは、マスメディアやインターネットの普及で若い世代が当然のように多様で個人的な価値観にさらされて、それを受け入れて育っていること。具体的には、いざ儀式の支え手となったときに彼らが、「大変だしもうやめようよ。みんなそれぞれで祝えばいいじゃん」と言い出す可能性である。


 私がもっとも言いたいことは、まかり間違っても特殊で排他的であることを、「人情味とあたたかさ」などと混同してはいけないということだ。O集落における、「人間関係の異常な近さ」は、現在でも廃れていない人情でもあたたかさでもなんでもない。

 ムラの結束のその結果が、「人間関係の異様な近さ」となるのであって、一見の部外者にはそれが「人情味とあたたかさ」と映るに過ぎない。

 

 都市部において、多くの生き方の多様性や価値観の多様性を受け入れ、1度でも「個」として生きた経験のある人なら、そのことを看破できるだろう。

 

 たとえば民主党は「コミュニティの崩壊こそが問題」などというが、私も「コミュニティ」の存在そのものを否定するものではない。

 地域の防犯や老人の安全、青少年の健全な成長などのためにも、近隣に対して「適度な」関心を持って、その適度な関心と適度な交流の集合体がコミュニティと呼ばれるものであるのなら、まったく異論はない。

 しかし日本には元からコミュニティなどなく、「無関心」の対極は即、「ムラ社会」であったのだ。狭い地域での相互監視のもと、陰口を叩き合ったり足を引っ張り合ったり、プライバシーが筒抜けだったり、そうした彼我の区別がつかない社会は間違いなく異様だ。

 社会のありようがムラ社会よりは無関心のほうがまだ近代的だというのは、そういう意味である。

ビッグダディⅡ。

 ビッグダディ Ⅱが放映された

 家族の見事な統率ぶりと民主的な意思決定、暴力を伴わない教育、手の込んだ愛情料理にマンガの才能など、本当にすごい人だ。

 家族運営と仕事を見事に両立し、さらにそこに加えての濃密な地域参加とくれば、見ているほうが心配になってくる。

 

 思うのは、これからこの家族は、それぞれが未曾有の問題に直面していくことになるんだろうな、ということだ。

 それは、「大家族の中での子どもたちの自我の確立」ということである。

 ビッグダディも今までは、幼い子どもたちを率いてがむしゃらに前に進むということが可能だっただろうし、子どもたちもただただ父親についていくということが可能だったのかもしれない。

 しかしこの四男四女たちは、これから本当にむずかしい年頃を迎えつつある。

 

 思春期に差しかかった四女たちは、他のメンバーからのプライバシーを強く求めるようになるだろうし、反抗期に差しかかった四男たちは、ビッグダディに反抗するようにもなるだろう。

 幼かったきょうだいたちはこれまで男女の別なくじゃれあってきたが、これからはそれぞれの性差を意識するようにもなるだろう(すでに長女は始終腕組みをしてカメラの前で胸を隠すようにしていたし、合格後の胴上げにも男のきょうだいはあまり乗り気ではなかった。たぶん本人が体に触れられることを嫌がるのだろう)。

 ビッグダディ自身も、年を取っていく。年を取るごとに気力と体力が増進していくという大人は、あまりいない。

 ようするに、今までのこの家族を支えてきた「家族一丸」という根拠が、子どもたちの成長とともに、徐々に希薄なものになっていこうとしているのだ。

 濃厚濃密この上ない環境で生きてきたそれぞれのメンバーにとって、その「希薄さ」こそは未知であって、その希薄さにそれぞれが今まで遭遇したことがないという意味で、未曾有なのである。

 ビッグダディ一家がどう変化していくのか、それをどう乗り越えていくのかを、私は見てみたいと思う。

 

 私の目から見て、ビッグダディにとって可哀相だったのは、集落の濃密過ぎる人間関係だった。

 年間を通して何らかの行事や寄り合いがしょっちゅうあり、それはもうほとんど酒宴の席であって、酒の飲めないビッグダディは、なんと6時間もしらふで付き合っていた。

 もし中座をしたならしたで、「付き合いが悪い人間」との悪評が立ち集団から疎外され、以後、地域の中で生活することが困難になってくる。

 いわゆる「世間」と呼ばれる、日本の地域共同体の負の側面である。最近は「コミュニティの崩壊」などといって、地方でも世間は消滅しつつあるようだが、それでも「離島の集落」には、まだそれがしつこく土着しているように私には見えた。

 

 日ごろのムラ社会への参加や貢献を条件に加入が許されることになる、いわゆる「世間」には、メリットもある。

 夫婦間のもめ事の仲裁、結婚の仲介、就職の世話、子どものしつけ、子守り、留守番、老人の介護等。

 抜け駆けを許さない相互監視に参加する見返りに、世間はその地域で生活するうえでのメリットを与えるわけだ。

 だから「コミュニティ」なるものが残存していることをもって、人々があたたかく人情味があって…などということは、はなはだしい誤解と錯覚であると言うべきである。

 「都会では隣で人が死んでいても気づかない」ということがよく語られていて、「だから都会は冷たい」ということになるのだが、どうしてそうなるのだろう? そういう無関心さは、人口が都市部へと移動し地縁を引きずらない人たちが都市を構成していることと無関係ではない。またバブル崩壊によって起こった価値観の多様化と生き方の多様性が認められた結果でもあって、無関心がいいことだとも思わないが、それは成熟した社会のひとつのありようだとも言える。

 馬鹿馬鹿しい。いい人は都会にだっているし、嫌な奴は田舎にいたって嫌な奴なのである。

 

 話が横道にそれたが、だったら思い切って、ビッグダディもとことん世間の世話になればいいと思う。

 まだ移住して8ヶ月だから、その段階にはないのかもしれないが、おいおい、遠慮せずになんでも共同体の世話になっていい。

 地域共同体への参加と貢献だけを要求されて、共同体はビッグダディに何のメリットも与えてくれないというのでは、いつまでたっても彼らにとっての「よそ者」でしかないからである。

 

 続編に期待する。