ビッグダディⅡ。 | ||Φ|(T|T|)|Φ||    監獄☆日記    ||Φ|(T|T|)|Φ||

ビッグダディⅡ。

 ビッグダディ Ⅱが放映された

 家族の見事な統率ぶりと民主的な意思決定、暴力を伴わない教育、手の込んだ愛情料理にマンガの才能など、本当にすごい人だ。

 家族運営と仕事を見事に両立し、さらにそこに加えての濃密な地域参加とくれば、見ているほうが心配になってくる。

 

 思うのは、これからこの家族は、それぞれが未曾有の問題に直面していくことになるんだろうな、ということだ。

 それは、「大家族の中での子どもたちの自我の確立」ということである。

 ビッグダディも今までは、幼い子どもたちを率いてがむしゃらに前に進むということが可能だっただろうし、子どもたちもただただ父親についていくということが可能だったのかもしれない。

 しかしこの四男四女たちは、これから本当にむずかしい年頃を迎えつつある。

 

 思春期に差しかかった四女たちは、他のメンバーからのプライバシーを強く求めるようになるだろうし、反抗期に差しかかった四男たちは、ビッグダディに反抗するようにもなるだろう。

 幼かったきょうだいたちはこれまで男女の別なくじゃれあってきたが、これからはそれぞれの性差を意識するようにもなるだろう(すでに長女は始終腕組みをしてカメラの前で胸を隠すようにしていたし、合格後の胴上げにも男のきょうだいはあまり乗り気ではなかった。たぶん本人が体に触れられることを嫌がるのだろう)。

 ビッグダディ自身も、年を取っていく。年を取るごとに気力と体力が増進していくという大人は、あまりいない。

 ようするに、今までのこの家族を支えてきた「家族一丸」という根拠が、子どもたちの成長とともに、徐々に希薄なものになっていこうとしているのだ。

 濃厚濃密この上ない環境で生きてきたそれぞれのメンバーにとって、その「希薄さ」こそは未知であって、その希薄さにそれぞれが今まで遭遇したことがないという意味で、未曾有なのである。

 ビッグダディ一家がどう変化していくのか、それをどう乗り越えていくのかを、私は見てみたいと思う。

 

 私の目から見て、ビッグダディにとって可哀相だったのは、集落の濃密過ぎる人間関係だった。

 年間を通して何らかの行事や寄り合いがしょっちゅうあり、それはもうほとんど酒宴の席であって、酒の飲めないビッグダディは、なんと6時間もしらふで付き合っていた。

 もし中座をしたならしたで、「付き合いが悪い人間」との悪評が立ち集団から疎外され、以後、地域の中で生活することが困難になってくる。

 いわゆる「世間」と呼ばれる、日本の地域共同体の負の側面である。最近は「コミュニティの崩壊」などといって、地方でも世間は消滅しつつあるようだが、それでも「離島の集落」には、まだそれがしつこく土着しているように私には見えた。

 

 日ごろのムラ社会への参加や貢献を条件に加入が許されることになる、いわゆる「世間」には、メリットもある。

 夫婦間のもめ事の仲裁、結婚の仲介、就職の世話、子どものしつけ、子守り、留守番、老人の介護等。

 抜け駆けを許さない相互監視に参加する見返りに、世間はその地域で生活するうえでのメリットを与えるわけだ。

 だから「コミュニティ」なるものが残存していることをもって、人々があたたかく人情味があって…などということは、はなはだしい誤解と錯覚であると言うべきである。

 「都会では隣で人が死んでいても気づかない」ということがよく語られていて、「だから都会は冷たい」ということになるのだが、どうしてそうなるのだろう? そういう無関心さは、人口が都市部へと移動し地縁を引きずらない人たちが都市を構成していることと無関係ではない。またバブル崩壊によって起こった価値観の多様化と生き方の多様性が認められた結果でもあって、無関心がいいことだとも思わないが、それは成熟した社会のひとつのありようだとも言える。

 馬鹿馬鹿しい。いい人は都会にだっているし、嫌な奴は田舎にいたって嫌な奴なのである。

 

 話が横道にそれたが、だったら思い切って、ビッグダディもとことん世間の世話になればいいと思う。

 まだ移住して8ヶ月だから、その段階にはないのかもしれないが、おいおい、遠慮せずになんでも共同体の世話になっていい。

 地域共同体への参加と貢献だけを要求されて、共同体はビッグダディに何のメリットも与えてくれないというのでは、いつまでたっても彼らにとっての「よそ者」でしかないからである。

 

 続編に期待する。