「集落」=「世間」≠「コミュニティ」。 | ||Φ|(T|T|)|Φ||    監獄☆日記    ||Φ|(T|T|)|Φ||

「集落」=「世間」≠「コミュニティ」。

 だいたい離島の集落で「敬老会」などという行事が、98回の長きにわたって営々と執り行われているということが異様だとは、誰も思わないのだろうか。大人たちは総出で会場を設営し、老人たちは総出で正装で着飾って出かけて行き、子どもたちは総出で催し物を披露する。

 

 こうした環境下では、おじいちゃんおばあちゃんよかったねと、家の中でひっそりと個人的に敬老を祝うことは、決して許されない。「敬老会」への参加こそが、「集落=世間」に忠誠を示していることの証とされるからだ。

 そしてあたりまえだが不参加に対しては、共同体からの「村八分」という制裁がある。

 

 離島の集落の敬老会の夜には、祝うほうにも祝われるほうにも、厳粛なしきたりがある。

 祝われる側は「三膳」なる縁起物の料理を作って出迎えなければならないし、祝う側は祝儀を持って訪問し、その出された三膳を、それぞれ意味づけのある順序どおりに、正しく食べなければならない。

 

 住民は「年間を通してほかにも行事がいろいろと多い」と言っていたが、こうした風習はまったくのところ共同体の結束を強めるための「儀式」にほかならないものだ。そしてその特殊性と排他性をもって集団内部の結束を強めているという点で、実は暴走族の集会と本質的には変わるところがない。違うところは「掟」を破ったときの制裁が、リンチか村八分かということぐらいだ。

 

 ただこうした「儀式」は、この先2つの点でおのずから崩壊していく可能性がある。

 ひとつは財政が立ち行かなくなった自治体が、Iターンのような制度を作って自らを外部に対して開いた結果内部の風通しがよくなり、共同体に変質が起きること。つまり異なる価値観を持った他者の参入で、今までのものと他者が持ち込んで来たものとの間での文化比較が起こり、自分たちの慣わしが不合理なものであったと気づき、自然消滅すること。

 そしてもうひとつは、マスメディアやインターネットの普及で若い世代が当然のように多様で個人的な価値観にさらされて、それを受け入れて育っていること。具体的には、いざ儀式の支え手となったときに彼らが、「大変だしもうやめようよ。みんなそれぞれで祝えばいいじゃん」と言い出す可能性である。


 私がもっとも言いたいことは、まかり間違っても特殊で排他的であることを、「人情味とあたたかさ」などと混同してはいけないということだ。O集落における、「人間関係の異常な近さ」は、現在でも廃れていない人情でもあたたかさでもなんでもない。

 ムラの結束のその結果が、「人間関係の異様な近さ」となるのであって、一見の部外者にはそれが「人情味とあたたかさ」と映るに過ぎない。

 

 都市部において、多くの生き方の多様性や価値観の多様性を受け入れ、1度でも「個」として生きた経験のある人なら、そのことを看破できるだろう。

 

 たとえば民主党は「コミュニティの崩壊こそが問題」などというが、私も「コミュニティ」の存在そのものを否定するものではない。

 地域の防犯や老人の安全、青少年の健全な成長などのためにも、近隣に対して「適度な」関心を持って、その適度な関心と適度な交流の集合体がコミュニティと呼ばれるものであるのなら、まったく異論はない。

 しかし日本には元からコミュニティなどなく、「無関心」の対極は即、「ムラ社会」であったのだ。狭い地域での相互監視のもと、陰口を叩き合ったり足を引っ張り合ったり、プライバシーが筒抜けだったり、そうした彼我の区別がつかない社会は間違いなく異様だ。

 社会のありようがムラ社会よりは無関心のほうがまだ近代的だというのは、そういう意味である。