「希望」とは「再生の可能性」なのかもしれない
「火車」は、生活費のちょっとした不足分をクレジットやサラ金で補ったりしたことから、雪だるま式に借金が膨れ上がる「サラ金地獄」がモチーフになっている。
そのなかで、再三繰り返されることがある。
それは、「膨大な借金で首が回らなくなったときには、自己破産という手段がある」ということと、「自己破産を知らない人がいる」ということだ。
作中に登場する溝口弁護士も、「借金で逃げたり、死んだり、人を殺したり、犯罪に走る前に“自己破産”ということを思い出してほしい」と語っている。
では本間刑事が言うところの、“本来あるべき自分になれない” “本来持つべきものが持てない” の、「本来」とは何だろう?
それは、「借金がなければ」と言い換えることができはしまいか。
要するに本間は、「これから先、さらに加速していくだろうクレサラ社会の中で、借金で希望を失った人間たちが、その忿懣を、爆発的に、凶暴な力でもって清算するようになる」と言っているのである。
少なくとも18年前は、まだ日本的雇用慣行が存在していたから、主たる「絶望」の要因は「クレサラの借金」というのが代表格だった。
しかし最近では、その絶望の要因は「働き方」の問題にまで広がっている(正社員になりたいのになれないなど)から、状況は当時の本間の予測よりも、さらに悪くなっていると言っても過言ではない。
借金問題における自己破産の意味は、「人生のやり直しを可能にすること」、すなわち「再生」である。
再生の可能性があれば、「絶望」は「希望」に変わりうる。
では望まずして派遣労働者や日雇い労働者になっている人が「絶望」しているとして、その人たちにとっての「再生」とは何だろうか。
それはやはり、「正社員就業」であるだろう。
非正社員から正社員への転換の可能性は、「自分も安定した働き方へ変わることができる」という「希望」になりうる。
ただし加藤のような、「サラ金に借金のある派遣労働者」という人もいるから、問題はそう単純ではない。
むしろワーキングプアであるからこそ、借金の可能性は高まる。
(小野真弓は“パート・アルバイトの方でもご融資できます”と言っていたような気がする)
しかしできるところから「絶望」を「希望」に変えてゆく施策にしか、現在の状況に有効な手だてはないのではないか。
逆に言えば、絶望を絶望のままに放置しておけば、今後も「大義なきテロリスト」が、「忿懣を、爆発的に、凶暴な力でもって清算する」事件は、繰り返し起こるということでもある。
希望のタネ。
最近、宮部みゆきの「火車」を読んだ。
その中に、最近立て続けに起こった「通り魔殺人」の本質を見抜いているような文章があって、非常に驚いた。
本間という休職中の刑事が、飼い犬を同級生に殺された小学生の息子に、心中で語りかけている場面である。
「自分の身に降りかかったことを、そういう形でしか“清算”できない人間というのはいるんだよ」
「これから先、お前たちが背負って生きぬいていく社会には、“本来あるべき自分になれない”“本来持つべきものが持てない”という忿懣(ふんまん)を、爆発的に、凶暴な力でもって清算する――という形で犯罪をおかす人間が、あまた満ちあふれることになるだろう」
本間のその言葉の後を、息子が引き継ぐ。
「でね、そういう人は、自分の気に入らないことを見つけると、まずそれをぶっこわしておいてから、ぶっこわした理由をでっち上げるんだってさ」
「えっとね、大切なのは、どんなことを考えたかってことじゃなくて、どういうことをしたかってことなんだって」
「ひどいことをする人は、自分がどうしてそういうことをするのか、ちゃんと考えたことがないんだって。だからひどいことができるんだって」
「火車」の初版は1990年だから、なんと今より18年も前に、宮部みゆきは一連の「個人的テロ」を「予言」していたことになる。
文中の少年は当時10歳だから、「お前たちが背負って生き抜いていく社会」である現在は、28歳になっていて、この部分でも加藤らの「大義なきテロリスト」たちの年齢と、シンクロしている。
だから以上の一連の文章は、現在起こっている問題の解釈に応用できると考えて、差し支えないだろう。
そこで大事になるのが、次の一文だ。
「(犬を殺した)あいつが自分のしたことをよおく考えて、それからあやまりにきたなら、カンベンしてあげなさいって」
「そうだね。父さんもそう思うよ」
重要なのは「カンベンしてあげる」ということではない。
「自分のしたことをよおく考えて、それからあやまりにきたなら」という部分だ。
これは、宮部の言うところの「忿懣を、爆発的に、凶暴な力でもって清算」しようとしている人間であっても、その人間が事を起こす前に、「自分がやろうとしていることをよく考え、反省し、自己矯正できる可能性」を、示しているものと受け取れる。
すなわち加藤のような人間は、決して先天的な異常者でもなんでもなく、「考え方さえ正しくできれば(自己矯正)」、事件など起こさずにいられただろうというものだ。
ならば、その「自己矯正」のきっかけとなるものはなんだろうか。
私はかつて、そのきっかけは「希望」だと書いた が、それでは漠然としすぎているし、宮部もそこまでは書いていない。
この作品はクレジットやサラ金などのローン問題がモチーフになっていて、作中で宇都宮健児氏がモデルと思われる弁護士が、「クレサラ問題が深刻化するのは、昭和50年代のサラ金地獄から」と書いている。
宮部の指摘は当を得ているから、作中の記述や分析は、ここでも現在起こっている問題の解釈に応用できると考えてよい。
もしそうだとすればその時点から現在まで約30年、宮部の指摘からも18年が経過しているわけで、今の事態は「長い時間をかけて、徐々に社会がおかしくなってきた結果」と言える。
(しかし30年もの間、政治はいったい何をやっていたのだろうか?)
「クレジット・サラ金問題」と、「忿懣の、爆発的かつ凶暴な力での清算」との間に、どのような因果関係があるのかはわからないが、私が言うところの「希望」のタネは、あんがいこんなところにありそうな気がする。
その考察は、またあらためて。
存在しない駅の犯行予告で逮捕
引用ここから
インターネット掲示板「2ちゃんねる」に「埼京線の上野駅で人を殺しまくります」と書き込んで警察官に警戒を強化させたとして、警視庁上野署は14日、偽計業務妨害の疑いで、板橋区成増の無職、崎山裕介容疑者(32)を逮捕した。上野駅に埼京線は乗り入れておらず、「存在しないから犯罪にはならないと思った」などと供述している。
調べでは、崎山容疑者は6月28日午後7時半ごろ、掲示板に殺害予告を書き込み、2日間で延べ50人の署員を警備に当たらせるなどして業務を妨害した疑い。自宅のパソコンから書き込んでおり、すぐに浮上したという。
引用ここまで
存在しない駅の犯行予告で逮捕なのだそうだ。
北武急行電鉄 というのがある。
ネット上にしか存在しない、完全に「存在しない」駅である。
もし、ここの犯行予告をしたらどうなるのだろう?
加藤。
例の秋葉原の事件である。
私は加藤は、たんなる異常で冷酷な殺人者ではないと思う。
加藤を通り魔殺人へと駆り立てたのは、ただの認知のゆがみではないのか。
「認知のゆがみ」というのはもともと心理学用語で、実際には詳しい7兆候があるのだが、私はここでは単純に、「思い込みによって作られた悲壮な世界観」という意味で使っている。
やはり大きいのは、家庭環境であっただろう。
親は厳しかったようだし、加藤は日常的に「うまく○○できなければ見捨てられるのではないか」という、見捨てられ恐怖にさらされてきたはずだ。
親が理想とする自分と、現実の自分との間で相当な葛藤もあったはずだし、そのギャップは加藤から「自信」を根こそぎ奪っていっただろう。
加藤のように内面に不穏なものを抱えていた人間は、いつの時代にだっていたと思う。
しかしその内面の不安定は、「正社員」という生活の安定によって、かろうじて支えられてきたのではないだろうか。
一昔前までの働き方は、正社員かパート・アルバイトしかなく、アルバイトの意思を持たない人は、「そろそろ身を固めよう」と思えば、ブルーカラーであっても正社員として働くことができた。
正社員だったら多かれ少なかれ「会社の看板」と「収入の安定」という社会的信用があって、かつ「福利厚生」もある。年功序列制で、長く勤めれば勤めるほど給料も上がった。
多くの普通の人にとって、一度手に入れたそうした安定は簡単には軽んじられないもので、それは人を反社会的行為に走らせないための抑止力としても機能していた。ごく単純に言えば、「不始末を起こして会社をクビ」が怖いから、自然に自重していたのである。
先の見通しの立つ「人生設計」で財形貯蓄をしたり、結婚して家庭を持ったりすれば、なおさらそれは強い自重へとつながる。
それが簡単にクビを切られる「非正規社員」ともなれば、内面の不安定に、生活の不安定が重なってしまう。このような状況では、それがいつ抑え切れない「将来への悲観」へとつながって、「失うものは何もない」と投げやりになっても、何も不思議はない。
いままではその行き着く先が「自殺」だったが、今回の事件から他人を巻き込む「自爆テロ」に変わった、という指摘がある。
おそらくその考察は、あながち間違いではあるまい。
同じような事件は、いつどこで起こっても、もはや不思議はないだろう。人ひとりの存在が「使い捨て」として軽んじられれば、「自分の人生が大事なように他人の人生も大事」という前提が、成り立たなくなるからだ。
それが社会的であるにせよ、精神的であるにせよ、ほかの何かであるにせよ、「追い詰められた人間」というのは、例外なく視野狭窄に陥っている。
いろいろと考えたあげく、「自分の存在が軽いように、他人の存在も軽い」という結論を導き出す人間が、今後も続くかもしれないことは、容易に想像できる。
その視野狭窄に対する有効な処方箋のひとつは、「未来への希望を示すこと」だが、しかし私はその方法を知らない。
加藤は「彼女」に固執していたが、加藤にとっての「彼女ができること」は、未来への希望の象徴だったのではないか。
「そばに自分を好きな誰かがいること」で、閉ざされた未来の重い扉が少し開かれて、そこからかすかな光が射し込んでくるのではと、淡い期待を抱いていたのではないか。
そう仮定すると、たとえば国家が「彼女以外の未来への希望」を加藤に示せていたなら、加藤は凶行に及ばなかったかもしれない。
それはともかくとしても、私は加藤を哀れに思う。
加藤を今回の事件へと駆り立てたのは、「自分は世界で一人ぼっち」という、悲壮な世界観である。
しかしその思い込みは、私がかつてこれ やこれ で書いたように、おそらくすぐに打ち砕かれて、馬鹿ではない加藤はごく短期間のうちに真人間になるだろう。
自分を裁くために、膨大な数の人間が、膨大な時間と手間をかけて動く。刑事・留置場の世話係・移送係・裁判官・検察官・弁護人・裁判所書記官・事務官。
「自分のために誰かが動く」という経験は、加藤の目を覚まさせるに違いない。かつて私がそうであったように。
「自分のために誰かが動く」という実感は、「実は自分は一人ではなかったのだ」という気づきにつながる。そしてそのあとに待っているのは、猛烈な後悔と反省だ。
絶対に、加藤は死刑を免れまい。
しかしその瞬間、加藤は猛烈な後悔と改悛の情を抱いたまま、ただの気弱な1人の真人間として刑に処されるはずで、私はそれを哀れに思うのである。
それが7人を殺した人間の責任だろ、と言われれば、私には返す言葉もないが。
激闘!シングルマザー 17歳の決断!
先週は例の「余命1ヶ月の花嫁」をまたやっていた。
1周忌らしい。
別に新たにみるべきものはなかったし、またムカムカしただけだ。
番組の後半でバカな教師が2人、「いのちの授業」とかいうのをやっていた。
いのちの授業。噴飯ものだ。
恋人の「○ちゃん、毎日病室でなにやってるの?」という問いかけに、女性は「生きてる」と答えた。
それを取り上げて、みんなで泣いたりしていた。アホか。
ようするに「命は大切なんだよ」という趣旨らしいが、だったらさっさと病院に行けばよかったのだ。
命を粗末にした人の話なんか、生徒に聞かせたってしょうがないだろう。
人が死ねば、悲しいのはあたりまえだ。人が死ぬ話には、本能的な悲しさがある。
だからみんなが泣いたからといって、それが必ずしも美談であるとは限らない。
この教師たちは、「命を粗末にした人の話」という本質を見抜くことができず、美談と信じて教壇に立ったのである。もう救いようがない。
戦前にはこの手の人間たちが、率先して子供たちを無謀な戦争に駆り立てたんだろうなというのが、よくわかる光景だ。
それはまあいい。
今週は「激闘!シングルマザー 17歳の決断!」 というのをやっている。
なんか、家出した母親のあとを追って娘も家出したようだ。
それで、15のときに17の男の子供を妊娠するが、妊娠8ヶ月で破局する。
番組は破局という言葉を使っていたが、ようするに男はまだ遊んでいたかったのだろう。
で、今は17歳の女が、児童福祉手当(生活保護?)で11ヶ月の嬰児を育てているのだ。
あんなぁ。そういうのは育ててるって言わねえんだよ。
自分たちの本能の赴くままの性行為を、縁もゆかりもない社会の人びとが税金で尻拭いしてるんだよ。
どうせまた男ができたら無責任にほったらかすのが関の山だから、さっさと熊本の赤ちゃんポストに、「申し訳ありませんが育ててください」って置手紙置いて、入れてこいよ。
ビッグダディに引き取ってもらうとか(笑)
私は当人たちではなく、TBSに憤っているのである。
あーーーーーーイライラするな!!!!
とか言いつつ最後まで我慢して見ていたら、結構いい子だった。
兄ちゃんもしっかりしていたし。
子供と2人で生きていこうという決意は、文句なく立派だ。
ただね、女の性というと語弊があるけど、シングルマザーというのは、男ができるとついついそっちを優先にしてしまうもんなんですよ。
その結果子供が虐待されるなんてことになったら目も当てられないし、だから自分が今後子供を後回しにしてしまうようになるかもしれないという可能性は、母親だったら十分に自覚する必要がある。
そして生きていく自然の流れの中で、彼女に誰か伴侶が現れることは悪いことではないが、今の目先の寂しさに惑わされて出会い系などで安直に誰かを求めるようなことがなければいいなと思った。
安いよなぁ。
品質もいいし。
某ネット市場で調べてみたら、2,700円でスライスが2パック買えるだけだったから、1羽分でこの値段は、相当安いだろう。
たぶん、障害者施設が運営しているから、人件費がかなり抑えられるのだろうと思う。
今ある障害者授産施設といえば、せいぜいよくてパン屋ぐらいのものだ。
別にパン屋が悪いというわけではないが、競争力に劣る。
パンなんかコンビニでもどこでも買えるし、町のフレッシュベーカリーとも競合するからだ。
「わざわざ」障害者施設で買おうという、モチベーションに欠けるのだ。
でも、鴨という着眼点は非常にいいと思う。
鴨肉というのは、知り合いに猟師でもいない限りは、そうそう手に入らないからだ。
スーパーには、クリスマスか正月でもない限りあまり置いておらず、だからデパートや通販で買うことになるが、ネックは高いことである。
その値段の高さという問題をクリアしたのだから、いい店だ。
有機野菜も扱っている。
「お取り寄せグルメ」というのがブームだが、どこから何を買うにしても、珍しい特産品は高い。
その特産品の障害者施設を作れば、値段の安さから繁盛して、経営も十分成り立つのではないか。
障害者授産施設も、どこにでもあるようなパン屋なんか作っていないで、どんどんこういう試みをしてほしいものだ。
ビッグダディⅤ
久しぶりに、ビッグダディを見た(正月の特番は見逃したのだ)。
なんと、ビッグダディと元妻の間に子ができて、生むとか生まないとかの話になっていた。
ビッグダディは「母体に危険がある」だとか「最悪の場合は赤ん坊をあきらめる」みたいな話を、緊急ミーティングだとかと称して子供全員に相談を持ちかけていたが、それはどうなのだろう?
民主的な家族運営というのはビッグダディの好ましい面の1つだが、これを民主的というのは、少し違うと思う。
そんなのは作った人間と生む人間が勝手に決めればいいことで、他の子供たちだって相談されたところでどうしようもない。
年端のいかない子供たちの誰が、人間1人の命について決められるというのだろうか。
うわ。
8歳の女の子が、「いちばんいいのは赤ちゃん生んで、母ちゃん死ぬことだよ」と言った。
ナレーションは言い間違いだとフォローしていたが、仮に逆だとしても「母ちゃんが生きて、赤ちゃんが死ぬことだよ」となる。
この子は冒頭でも、「とと的には母ちゃんいらないけど」と言っていた。
ナレーションは「母親が心配」ということで片付けていたが、これは断じて心配などではない。
母親が恋しいさかりの8歳の女の子と10歳の男の子が、子供らしくないこういう愚痴をこぼし合っているということを、ビッグダディはもっと重く受け止めるべきだ。
長女に「父ちゃんさ。Y美ちゃん(元妻)と、将来のことちゃんと考えたほうがいいんじゃない?」と言われたときに、ビッグダディは、「ほう。ほぉ~」と、長女と向き合うことなく逃げた。
実は「生まれてくる赤ん坊のことについて、元々のメンバーに相談する」などというのも「逃げ」だ。
私には、他のメンバーを会話や起こる事態に加えるということで、「作った人間と生む人間」の責任を、一部肩代わりさせているように見えてならない。
ビッグダディ。
あなたは今まで、「一人親家庭の父親」としての視線で子供たちを見ていたが、今は「夫婦関係の中の夫」という視線で子供たちを見ている。
だから長女の言ったことについて、「くそ偉そうなこと」などという感想が出てくるのだ。
長女はごく当たり前に「筋を通せ」と言っているのだ。それは「くそ偉そうなこと」でもなんでもない。
まぁ子供を作るとか生むとか、復縁するとかしないとかという話は、究極に個人的・家族的な問題だから、第三者が安易に口を挟むことは避けなければならない。
しかしそれにしても気がかりなのは、「地域の中でのビッグダディの今後」だ。
ビッグダディが住む借家の大家は、「離婚して、その後いきなり島に来て、子供ができたからってまた一緒にくっつくというのは周りの目がどうか」というようなことを言っていた。
周りの目が気になるぐらいならそもそもテレビなど出ないだろうが、だからといって世間を完全に無視して家族だけで開き直って生きていくというわけにもいくまい。
「島」という究極のムラ社会の中では、世間を敵に回せば日常生活そのものが困難になるし、もともと「外部からの目」に島がさらされるということについて、快く思っていない住人もいるはずだ。
ただそれについては、テレビがしばらくは防波堤になるだろう。
テレビという「外部からの目」があるうちは、あからさまにひどい態度を「世間」も取れないはずだからだ。
まぁいいや。
私は基本的にビッグダディが好きだし、ビッグダディのやることを信じてもいる。
続編に期待しようと思う。
パターナリズムの崩壊と新たなパラダイムの形成
パターナリズムとは父権主義と訳される。
家長のリーダーシップに、他のメンバーは付き従うという構図だ。
例えば15年くらい前の医療現場では、父権主義が機能していたような気がする。
インフォームドコンセント(診療に伴う説明と同意)という言葉がちらほら出てきはじめた時期ではあったが、定着はしておらず、「患者の権利」などというものを定めている病院も、ほとんど皆無だった。
しばしば「密室医療」などと揶揄されてもきたが、診療方針は医師のみがほぼ独断で決め、患者はそれにただ付き従うというスタイルが、ほぼ標準的な医療スタイルだった。
この時代、同意書なるものはせいぜい手術内容に関するものが1~2枚渡された程度だった。
現在、この「医師によるリーダーシップ」は、ほぼ崩壊している。
検査ひとつとっても同意書同意書の連続で、入院中に装用する医療用具の説明書や麻酔の説明と同意書、手術に関するものなどが、1回の治療で山のように渡される。
「治療に患者が参加」するようになったことの、ひとつの側面である。
やはり15年ぐらい前の学校教育でも、父権主義が機能していた。
学級は家族であり、担任教師が家長であり、生徒は子弟という、言ってみれば「バーチャル家庭」というようなものが、学校教育だったわけである。
教師が家庭訪問にくれば親はペコペコしていたし、教師の進路指導がその家の第一順位の意思であったような気がする。
現在は「学校教育に家庭が参加」するようになって、子弟の教育内容に親が苦情を入れる時代になっているらしい。
現在2つの現場に共通して存在するのが、「モンスターペイシャント」「モンスターペアレンツ」という存在である。
「無理難題要求をする患者・親」ということだが、どこがどうモンスターなのだろうか。
注意しなければならないのは、「モンスター」と映るのはあくまで医師・教師からの視点からであって、社会共通の概念ではないということだ。当事者以外の人からは、例えば犯罪者のようなわかりやすい「モンスター」ではない。
医療や学校教育でいう「モンスター」というものの実態は、案外、「従来の価値観ではコントロールできない人」というところに納まるのではないだろうか(※)。
医師・教師は、あくまでも以前からの継続として物事を見ているが、実際には患者は治療に参加をするようになった点で、また親は学校教育に参加をするようになった点で以前とは異なっている。
しかしその「参加」という行為は歴史が浅いから、その仕方が洗練されていないし、加減の調節を分かっていない。それが時として「無理難題要求」として表出するのではないか。参加を要求されるようになったメンバーも、それはそれでとまどっているのだと思われる。
このことは「医師」「教師」という、かつて強権的であった職業の人の職場でのみ起こっていることからみても明らかだ。かつての強権では処理できない人々を、欺瞞的に「モンスター」と呼称しているとさえも言えるかもしれない。
こう考えてくると、何もモンスターペイシャントやモンスターペアレントと言われる存在は、社会が悪い方向に変化して出現したものではないし、決して話が通じない人でもないと考えることができる。
医師が訴訟リスクに怯えるのは仕方のないことだが、しかしその直接的な理由を患者に求めるべきではない。背景は患者そのものにあるのではなく、社会の移行期に必然的に生じた一時的な弊害であるからだ。
逆に言えば、今までの父権主義下で黙らせておけたものが黙らせておけなくなっただけの話である。
学校教育に親が介入することについても、要は同じことだ。今まで黙らせておけたものが黙らせておけなくなっただけの話である(※2)。
家父長が一方的に物事を決めてきた場面へのメンバーの参加は、必然的に父権主義を崩壊させる。
比喩になるが、「旧秩序が崩壊したあとの焼け野原の混乱」というのが、現在の状況ではないだろうか。
しかし「新参加」はいずれ社会に定着し、トライアルアンドエラーを経たのちに、双方の適切な関わり方や合意、共通認識というものが、そのうち自然に形成されるだろう。
現在はあくまでも、その移行期に混乱しているだけだ。
繰り返しになるが、モンスターペイシャントやモンスターペアレントという存在は、恐怖する対象でも忌避すべき対象でもなんでもない。
現在対応に苦慮している方々には切実な問題であろうが、長期的に見ればこの混乱状況はいずれ必ず解消され、新しいパラダイムを迎えるだろう。
そしてそこでは父権主義時代の盲目的追従よりもより温かな、相互信頼に基づく人間らしいコミュニケーションで物事を進めることができるようになるはずだ。
なぜ父権主義が崩壊したかということについては、「時代にそぐわなくなった」という点に尽きる。
聖職だとか仁だとか、父権主義が影響力を行使しうる、抽象的な価値観の影響を強く受けていた現場に、「サービス」という現実的な価値観が持ち込まれるようになったことが大きい。
「サービス」が金銭的支弁の対価である以上、サービスを受ける側には「当事者としての参加」という権利が与えられたと考えることができる(※3)。
その意味でいま我々の目の前にある混乱は、いずれ我々の誰もが突き当たり、そしてそれを甘受しなければならなかったことでもある。
ある立場の人からは「モンスター」と見える人々も出現はしたが、全体としてみた場合、父権主義の崩壊はプラスのできごとではないだろうか。
限られた人々が一方的に物事を決めて付き従わせていたよりも、コミュニケーションを土台とする双方の納得と合意で物事を進めることは、ひとつの近代化だと考えるからだ。
(※)「昼間だと混むから夜間の救急外来に来る」というようなことはモラルの問題であって、モンスターペイシャントとは厳密に区別されなければならない。
(※2)こう考えると、「患者様という呼び方が患者を増長させた」などという意見が、まったくの的外れであるということがわかる。
(※3)義務教育は、納税の対価としての「行政サービス」である。
余命1ヶ月の花嫁(2)
前回は「医者に行かなかった自分が悪い」ということを書いたが、しかしこの女性には同情すべき事情もある。
それは彼女が「入職後間もなかったこと」だ。
労働基準法では入職後6ヶ月経過しないと、年次有給休暇が付与されない。
また仮に入社時の一斉付与などの制度があったとしても、「新入社員が休暇を取る」ことは現実的には難しい現状がある。
本来は根拠のないことであるのに、現実には半ば強制力を持っている「周囲の目」というものがあるからだ。入社後間もないのに休暇を取ったり、早退することを許さない風土がこの国にはある。新入社員に限ったことではないが、家庭や自分よりも会社に奉仕することが美徳とされた、高度経済成長からバブル景気までに広く存在した風潮のなごりだ。
職種がシステムエンジニアであったことも彼女には災いした。
IT企業(特にベンチャー)では労働契約条件が遵守されず、サービス残業や休日出勤、超過勤務が日常化していることが多いからである。
小さい子供がいるOLの話を聞いたことがあるが、その人は「うちの会社は子供が熱を出したときとかに『いいからもう帰りなよ~』と言ってくれるので、恵まれているほうだと思う」と言っていた。
しかしそういうものは本来、当然のこととして社会的なコンセンサスが形成されていなければならないものなのだ。
多くの人が育児や介護と仕事とを両立させることの困難に直面していて、実は「自分の体調が悪いから病院に行く」ということも、その同一線上にある。
新聞の医療面などでよく目にする、働き盛りの男性が手遅れで死んだりする話がある。そこまでになってしまった理由の大半が「仕事が忙しくて医者に行けなかった」というものだ。
早期発見・早期治療のための運動や、がん対策基本法などの制度を真に実効あるものにしようとするならば、労働環境から変えることが早道ではないだろうか。
育児・介護休業が法整備によってようやく実現されたように、必要ならば「診療休業」にも、法制度によって強制力を持たせるべきだ。
実際の通院は年休(半休含む)で行なっているという人も多いが、繁忙時には取得できなかったり、会社の年休に対する意識が低くて取得しづらいような会社では、診療のために休業することがままならない人もいるからである。そのために1日単位で診療のために休業できる制度がほしい。
そうすれば、繁忙期に時季変更されているうちに治療の機を逸してしまったなどという最悪の事態も避けられるだろう。
「病気になるなんていうのはたるんでる証拠だ」「日頃の自己管理がなってない」「俺は大きな病気などしたことがない」などと言ってふんぞり返っている無知な輩に、意識変革を迫る副効果もあるかもしれない。
医療費の問題も大きい。
私の受診では、診察と検査を合わせて3割負担で7千円近かった。他院にも通っている私の今月の医療費は、1万円を大きく超えるだろう。
今回薬は必要ないということであったが、もし服薬すれば薬局で別に薬代もかかる。入院とか手術とかということになれば、その費用は膨大だ。
がんによらずあらゆる病気の治療のカギは、「早期発見・早期診断・早期治療」にある。
しかし前述のように「治療が遅れる」ことは、複数の要因が複雑に絡み合った結果であることが多いから、単純に「意識を向上させる」だけでは早期治療につながらない。
がん死する人を減らそうとするならば、関連する問題を総合的に考えなければならない。
「診療休業」という風土が根付いたり、あるいは制度化されたりするまでには、まだ相当の時間がかかるだろう。
そこでもし私たちにできることがあるとするならば、それは「自己防衛」である。
具体的には「余命1ヶ月の花嫁」の場合には、例えばハードな職種を選ばないとかバイトから始めて様子を見るとか、そういうことも選択肢としてはあったのではないかと私は考えるのである。
余命1ヶ月の花嫁
昨年の5月には(±)だった尿タンパクが、11月には(3+)になっていた。
蛋白定量という尿中のタンパク量を量っても、増えていく一方で減る兆しはない。内科では原因がわからず、診療所のかかりつけ医が地域中核病院の腎臓内科に紹介状を書いてくれた。それが11月末。
ところがいろいろとバタバタしていて、行かなきゃなと思いつつもずっと先延ばしになっていた。
サエキさんのこともあり、私はもともと腎機能障害に恐怖感を抱いていた。
正月に「タンパク尿」でネット検索すると、慢性腎不全だとかIgA腎症、人工透析といった不穏な言葉が続々と出てくる。
腎生検になるのかなとかもう手遅れじゃないだろうなとかいろいろ思いつつ、1ヶ月前の紹介状を持って腎臓内科を受診した。
結果は大きな異常はなく「一応詳しい検査もしますけど、体重を減らせば治ると思いますよ。薬も必要ありません」とのことだった。
そんなわけで、けっこうハラハラしながらこの1ヶ月を過ごしていたが、その合間になんとなく思い出したことがあった。
「余命1ヶ月の花嫁」 の話である。
母親を早くに亡くし父1人娘1人の家庭に育った女性。
23歳のときに乳がんを発症し、治療の甲斐なく24歳で夭折する。
死の直前、友人たちは元気付けようと女性が交際していた男性との結婚式を挙げさせることにする…。
そんな話だ。
かわいらしい私好みの女性で、あまり悪口はいいたくないのだが、それでもやはり「でも自分が悪いよね」と思ってしまう。
女性はすでに1度乳がんで手術を受けていて、その後社会復帰していたのだが、ある日体に変調をきたす。ところが再就職先の職場は忙しくずっと異変を放置していて、我慢しきれずやっと受診したときには、再発した乳がんがすでに末期状態だった。
ナレーションは「最後まで生きる希望を捨てず病魔と闘い続けました」と言う。本人も死の床で恋人に「生きたいよ」というメールを送ったりしていた。
しかし生きたいなら生きたいなりにもっと早くどうにかできたはずで、手の施しようがない状態にまで放っておいて、いざ手遅れになってから生きたいと言われても、周りだってどうしようもない。
病院に行ったら残酷な真実を突きつけられるかもしれないし、それを考えたら足が遠のいてしまう気持ちもわかるが、病歴を考えたら放っておけば悪くなることはあっても自然によくなるとは到底考えられず、いずれは自分で向き合わなければならないことだった。
当然するべきことをせずに自分でどんどん状況を悪くしてしまったわけで、はたしてこれは美談なのだろうか?
最近本が出たらしい 。
オビには「皆さんに明日が来ることは奇跡です。それを知ってるだけで、日常は幸せなことだらけで溢れています」と書かれているようだ。
たしかにそうかもしれないけど、でもあなたに言われてもね…。
だって自分が悪いんでしょ? もっと早く病院に行くなり、定期的にフォローするなりしていれば、助かったかもしれないんだし…。
がんになったのは不運としか言いようがないが、しかしその後の「余命」を決めたのはむしろ自分ではないか。
乳がんの既往があるハイリスク群でありながらも、定期受診などの適切なフォローをせずに放置したのがこの結果なのだから。
乳がんの早期発見・早期診断・早期治療の大切さを訴えるピンクリボンキャンペーン の関係者がこれを見たら、きっと怒るだろう。
TBSの厚顔無恥なところは、「ヤンキー母校に帰る」にせよ「余命1ヶ月の花嫁」にせよ、よくよく考えれば何の意味もない個人的な物語を、さも意味があるかのようにもったいぶって見せるところだ(昔の人はそれを「お涙頂戴」といった)。
勝手にヤンキーになった人間が更生して母校で教師になったのも、幸せを夢見ていた若い女性が自分の責任で手遅れで死んだのも、それは単なる個人的な出来事に過ぎないのであって、実はそこには何の意味もない。
こちらからすれば「勝手にやってろ」という話なのであって、遺されたお父さんが気の毒ではあるが、感動するような話ではない。
こんなものを「さあ泣いてちょんまげ」とばかりに見せられる視聴者は、ようするにバカにされているのだ。
ご本人も天国で反省されているだろうからこれ以上は書かないが、もしあの話に教訓めいたものがあるとするなら、「具合が悪いときには早めに医者に行きましょう」ということだけだ。
時間の都合や医療費などいろいろ問題はあるが、それはまた別の話で、とりあえず私は「医者は早めにかかろう」とあらためて思ったのである。