平成19年2月23日 入院9日目
昨日老人が出て行ったベッドに、小太りの中年男性が入ってきた。
救命センターから上がってきたようで、羽織るだけの薄い術衣1枚で下は大人用紙オムツをしている。
例の弾性ストッキングを穿いていて、そういう姿でベッド上であぐらをかいて座っている姿は、笑ってはいけないのだろうが、なんともエキセントリックだ。
その男は、医者や看護師と喋っている最中にバタッと倒れて、「んん…。あぁ……。んふっ…」と突然悶えだす。実際は悶えているのではなく、てんかん発作のようだが、傍目からは快感に悶えているようにしか見えず、実に気持ちが悪い。
夕方院内をフラフラしていて、廊下のソファに座ってエレベータを待っていたら、医者がバタバタと2人駆け寄ってきて「ちょっとここ空けておいて貰えますか」と言って、エレベータ前の人混みを掻き分けた。
扉が開いて中に入っていたのは、慌しい4人の医師と名を叫ぶ1人のおばさん、1人が横たわったストレッチャ-だった。医師は心臓マッサージをしたり、アンビューバッグで空気を送り込んでいたり、「輸血血液用」と書かれたバッグを提げたりしていた。ストレッチャーが段差に引っ掛かってしまい、開けっ放しにしとけ! と医師が殺気立っている。
私の横を通り過ぎるときに顔を見たら、20代前半ぐらいの男性だった。丸坊主で、口が半開きで、色がとにかく青白くて血の通っていない色で、それを目にした途端に、恐ろしくて私の首筋がブルッと震えて、思わず顔を背けた。
エレベータに乗って病室に戻ったが、心臓がドキドキして動悸がする。
言いようのない不快感が胸の中に渦巻いて、なかなか収まらない。
この気持ちは何なんだろうと思った。
分かった。
一言で言えば私は、「死」に対して、恐怖したのだ。
平成19年2月22日 入院8日目
私の向かいに入院していた太った老人が1日で退院した。
ひじの2ヶ所に腫瘍ができたのだそうで、その切除だったが、「麻酔のほうが痛かった」と言っていた。
T老人とS老人には、「どうもどうも。お世話になりました。大事にしてね」と言って去っていった。
「大事にしてね」とは、いい言葉だ。お大事にというのとは、また別の響きがある。
ただ私には「またね」と言って行った。もう病院じゃ会いたくないよ…。
術後4日目ぐらいまでは、ノートに日記を書きつけるのにも術部に引きつれるような痛みが走ったが、今日はかなりよくなっている。傷自体の痛みもだいぶ少なくなっているし、治癒力というのはすごいものだ。
現在19時30分。
飯を食ってしまうと何もやることがなくなることと、長引けば長引くほど気が滅入ってくるところが、留置場とよく似ている。
平成19年2月21日 入院7日目
今日、包帯が外れた。
抜糸はまだだそうだが、傷そのものはシャワーで石鹸を泡立てて洗い流していいらしい。
おしゃべりなT老人は、認知症だろうか?
今日の診察で、「知っている野菜の名前を全部言ってください」というのをやらされたと憤慨していた。明日は脳のMRIだそうだ。
たしかに、向かいのS老人に自分でした話を忘れていたり、同じ話を繰り返したりそういう傾向がある。
S老人が戦争の話を始めた。富士山麓で訓練後、千葉の部隊に配属されたらしい。
「おいお前いくつだって聞くと、はい四十八でございますなんて言うんだ。農家から補充兵で連れて来られたんだよねぇ。四十八の年寄りなんか使い物にならないよ。農家にいればお米が食べられたのに、軍隊に来たら大豆しか食えないなんてあれ、生のまま食うんだよ。それで消化しないで全部出ちゃうんだ。可哀相だよねぇいくらなんでも。あんな兵隊じゃもつわけねえよ。勝てるわけないよ、あんだけ物資が違っちゃえば。それでね、佐倉の近くにB29が墜落したんだけど、見に行ったらね、焼けてないんだ。普通は入れないんだけど我々は××(聞き取り不能)の上着を着てるから入れたんだ。それでね初めて見たんだけど落下傘見たらね、生地が丈夫なんだよ。今考えたらナイロンなんだけど日本にはなかったんだよ。それでねあの、飛行機に載ってるウイスキーなんかビンじゃなくてね、全部あの、プラスチックなんだ。ビンだと思ったらビンじゃないんだよ。叩いてみたらね、コンコンって鳴るんだ。それだけアメリカは進んでたんだよ。1本かっぱらって飲んだんだけど」
「ふーん」
長い長い独白の合間に、T老人の合いの手が入る。
「飛行機にウイスキー乗っけて飛んでたんだ。それで食糧を携帯して来るんだけど缶詰が入っててね、開けてみたらすげえ豪華な食ったことのないような肉がギッチリ入ってんの。恐る恐る出してみて、何だろうこれ肉じゃねえのかなんて言って上官が志賀、私旧姓志賀っていうんだけど志賀食ってみろって言われて食ったんだけど、違いますこれ馬肉じゃありませんって、あれ牛肉だったんだよねぇ。それであの、両国の国技館。昔の国技館で何作ってたかっていうと、紙風船。いくつも飛ばしたもんね、風がアメリカに向かって吹いてるときに、あんとき飛ばすと風がこういうふうに向かって必ずアメリカに行くんだって、よくわかんないんだけど風船に爆弾つけて。経師屋さんが全部動員されて、和紙をね、こうやったりこうやったりして風船作って風に乗せて。空気爆弾だとさ」
「馬鹿だね日本は。そんなの届くわけねえじゃねえか」
「私もそう思ったんだけどねぇ。馬鹿だよ。まぁ最後のあがきだったんだろうねぇ。それでね、戦争の終わる2ヶ月前に隊長が全員集めてね、お前達覚悟しとけと。もう2ヶ月ともたないと。それでお前達は、日本の特高警察なんだから潔くしろと。潔くしろたって俺は逃げちゃうよって言ったんだよ。身を隠せばいいんだからさ、逃げちゃうよって言ったんだ」
逃げちゃあ困りますね、調子はどうですかと言って回診に来た主治医が割り込んできて、S老人の長い独白は終わった。
平成19年2月20日 入院6日目
私の病棟には、形成外科のほかに皮膚科と第一内科があるから、いろいろな人が入ってくる。
今日隣に入ってきた人は、EBウイルスに感染している伝染性単核症の40歳だ。
別に聞くつもりはないが、8人の大部屋でカーテン1枚でしか仕切られていないから、聞くつもりがなくても聞こえてしまう。
夜、外の喫煙所でタバコを吸っていたら、救命センターに来た救急隊員と隣り合わせになった。
いい機会なので「救急車の有料化についてどう思うか」と聞いてみたら、「お金が絡むと感情的な問題になるから、うまくいかないでしょうね」と言っていた。じゃあ通報を受けた段階での消防本部での選別についてはとなおも聞くと、「救急車を呼ぶ人は必要だと思うから呼んでるわけだから」と言った。
「救急車はね、大いに呼んでもらって結構なんですよ。もう、大いに結構。困ったときはお互いさまなんだから」
「でもね、急性アルコール中毒だけは勘弁してほしい」
「どんな時代でも、酒を飲んで酔っ払うことは自己責任なんですよ」
「若い奴なんかね、自分が2次会に出られないからって、救急隊に預けてっちゃうんだから」
「自分が死ぬのは怖くなんてないですよ。みんな死ぬときは苦しいんだろうなって思ってるけど、実際見てると死ぬときは本人は何にも分かってないんだろうなとよく思う」
平成19年2月19日 入院5日目
家に帰り着いた。
ただでさえ遠いところを手術後まもなく帰ってきたのだから、非常に疲れた。
入院のことをブログの記事にしようと思い日記をつけていたが、それを打ち込んだ。
キーを叩くときに傷が引きつって痛む。傷口が開かないかどうか、少し心配になってしまう。
昨晩から猫が引っ付いて離れないので、後ろ髪を引かれる思いだったが、届けてある16時30分までには、病院に戻らなくてはならない。
平成19年2月18日 入院4日目
一時帰宅の許可を貰った。
抜かりなく準備をしたつもりだったが、ケータイのイヤホンを忘れたのだ。
これがないとワンセグも見られないし、内蔵のウォークマンも聴けない。
テレビは備え付けのをチョコチョコと見ていればいいが、退屈を紛らわすための音楽を聴けないのは、大損している気持ちになる。
ついでに猫の様子も見に行く。
外泊届の理由欄は、理由の如何を問わず「試験外泊」とするらしい。外出のときは「試験外出」だ。
裏面の注意事項に「傷をぶつけないようにしてください」「転倒に注意してください」と書いてあった。
平成19年2月17日 入院3日目
今朝、点滴が抜けた。
本来は傷の化膿を防ぐため、数日はルートを確保しておいて抗生物質の点滴を続けるが、私の場合両手が使えないと洗面も入浴もできなくなってしまうから、「必要なときにまた刺してください」と言って、抜いてもらったのだ。
その後主治医がまた来て、「1日1回の点滴のためだけに針を刺すのもあれなんで、抗生物質は飲み薬にしましょう」ということになった。
遠い道のりを、保護司が見舞いに来てくれた。
「わざわざ来ていただかなくても大丈夫だったのに」と言うと、「約束したから」と言う。
せっかく来たのに、「用事があるから」と帰ってしまった。
帰り際にお見舞いの袋をくれた。中には5千円が入っていた。
もちろんありがたいのだが、貰いっぱなしというわけにはいかないから、退院したらお返しをしなければならない。
少し面倒で、気を遣う。
平成19年2月16日 入院2日目②
全身麻酔の場合、普通に寝たときのような「あぁ寝た」という感じはなく、意識が途絶えた次の瞬間には起こされる感じになる。
術中の時間感覚がないので、どんな大手術であろうが、受けている側にしてみれば一瞬だ。
今回は簡単な手術で、麻酔の深度が浅く、手術室で私はほぼ覚醒していた。
ナースに「導尿カテーテル(通称バルーン)は入っているか」と尋ねたところ、「入っていない」とのことでホッとした。抜くときに火がつくように痛いのである。
20分ほど待たされただろうか。病棟からの迎えがなかなか来ない。傷がジンジンする。
やっと病棟のナースがストレッチャーではなく、私のベッドを押して1人で迎えに来た。
カーテンで仕切られた自分のスペースは実に狭いので、こんなところどうやってストレッチャーを入れるんだろうと思っていたら(ベッドに移るときにはストレッチャーを横付けする)、まさかベッドごと来るとは…。
時間を聞くと4時過ぎで、病棟を出てから2時間余りが過ぎていた。
「もうすっかり覚めてますね」と言って、エレベーターを待つ間に世間話を始めた。私は酸素マスクを着けているし、傷が痛むので、あまり話す気がしない。
痛いんですけど、と言うと、「部屋に帰ったらすぐ鎮痛剤を点滴に入れますから」とのことで、3つの建物を横切りながら長い道筋を帰った。
全身麻酔の場合、脳に酸素を行き渡らせるために枕が使えない。胃や腸が動き出すまで水も飲めない。
ソセゴン(鎮痛剤)が効き始めると、傷の痛みがスッと和らいでいく。アタラックスP(鎮静剤)も効き始めたようで、ろれつが回らなくなってくる。
鎮静剤で寝たのか寝ていないのかよくわからなかったが、じりじりと時間が過ぎていく。7時ぐらいには腸も動き出したようだが、まだ飲水の許可は出ず、うがいのみさせてもらう。
8時を過ぎ飲水の許可が出た。カラカラに渇いたのどに、氷水がおいしい。消灯間際の9時近くには離床してもいいとのことで、ソロソロと立ってみた。
少しふらつくが小便を尿器にせず我慢していたので、点滴棒を転がしながらトイレに立った。
傷がまた痛み始めてきて、追加の鎮痛剤と鎮静剤を点滴してもらい、私は寝た。
せまいんだよ
平成19年2月16日 入院2日目①
13時30分に手術室に呼ばれている、とナースが言いに来た。
私は前開きの寝巻きをパンツの上から来て、タイツを穿き、準備をする。
タイツとは深部静脈血栓症予防のためのもので、いわゆるエコノミークラス症候群が起きないように、スリムウォークのようなものを男も着用するのである。
手術室までは自分で歩いていく。
その道すがら、話好きのナースがいろいろなことを私に尋ねてくる。
私には答えられないことも多いから、申し訳ないなと思いながらも「適当に」話をあわせることになる。
中央手術部に着き、自動ドアを入ってすぐの丸イスで待たされ、その間にそのナースが手術室のナースを呼び出し、引継ぎをしている。
その後手術室に入ることになるが、昨日の麻酔科の受診で「車酔いみたいになるので、手術室まではストレッチャー(寝台車)に乗らずに歩いていきたい」と申し出ていたので、歩いて手術室に入室する。
大小20あまりもある手術室のうち、わりと小ぶりな突き当りの1つに入ると、主治医はまだ来ていなかった。
自分で手術台の上に上がるように促され、仰向けに横になると、左手甲に点滴のラインを取られる。
足と手の指に、心拍とSPo2(血中酸素飽和度)のセンサーがつけられた。
麻酔科医が、「じゃあ最初はガスで眠っていただきますので…。少し臭いがあるので、口で大きく深呼吸をしてください」と言って、私の鼻と口にガスマスクを当てた。
スーハー。1呼吸目。変化はない。
スーハー。2呼吸目。視界がかすんでくる。
スーハー。3呼吸目。視界はほとんどかすんでしまっており、手術室内の音が遠くに聞こえる。脳の中心から痺れてくるような感覚で、不思議と恐怖感はない。
スーハー。4呼吸目で、私の意識は途絶えた。