加藤。
例の秋葉原の事件である。
私は加藤は、たんなる異常で冷酷な殺人者ではないと思う。
加藤を通り魔殺人へと駆り立てたのは、ただの認知のゆがみではないのか。
「認知のゆがみ」というのはもともと心理学用語で、実際には詳しい7兆候があるのだが、私はここでは単純に、「思い込みによって作られた悲壮な世界観」という意味で使っている。
やはり大きいのは、家庭環境であっただろう。
親は厳しかったようだし、加藤は日常的に「うまく○○できなければ見捨てられるのではないか」という、見捨てられ恐怖にさらされてきたはずだ。
親が理想とする自分と、現実の自分との間で相当な葛藤もあったはずだし、そのギャップは加藤から「自信」を根こそぎ奪っていっただろう。
加藤のように内面に不穏なものを抱えていた人間は、いつの時代にだっていたと思う。
しかしその内面の不安定は、「正社員」という生活の安定によって、かろうじて支えられてきたのではないだろうか。
一昔前までの働き方は、正社員かパート・アルバイトしかなく、アルバイトの意思を持たない人は、「そろそろ身を固めよう」と思えば、ブルーカラーであっても正社員として働くことができた。
正社員だったら多かれ少なかれ「会社の看板」と「収入の安定」という社会的信用があって、かつ「福利厚生」もある。年功序列制で、長く勤めれば勤めるほど給料も上がった。
多くの普通の人にとって、一度手に入れたそうした安定は簡単には軽んじられないもので、それは人を反社会的行為に走らせないための抑止力としても機能していた。ごく単純に言えば、「不始末を起こして会社をクビ」が怖いから、自然に自重していたのである。
先の見通しの立つ「人生設計」で財形貯蓄をしたり、結婚して家庭を持ったりすれば、なおさらそれは強い自重へとつながる。
それが簡単にクビを切られる「非正規社員」ともなれば、内面の不安定に、生活の不安定が重なってしまう。このような状況では、それがいつ抑え切れない「将来への悲観」へとつながって、「失うものは何もない」と投げやりになっても、何も不思議はない。
いままではその行き着く先が「自殺」だったが、今回の事件から他人を巻き込む「自爆テロ」に変わった、という指摘がある。
おそらくその考察は、あながち間違いではあるまい。
同じような事件は、いつどこで起こっても、もはや不思議はないだろう。人ひとりの存在が「使い捨て」として軽んじられれば、「自分の人生が大事なように他人の人生も大事」という前提が、成り立たなくなるからだ。
それが社会的であるにせよ、精神的であるにせよ、ほかの何かであるにせよ、「追い詰められた人間」というのは、例外なく視野狭窄に陥っている。
いろいろと考えたあげく、「自分の存在が軽いように、他人の存在も軽い」という結論を導き出す人間が、今後も続くかもしれないことは、容易に想像できる。
その視野狭窄に対する有効な処方箋のひとつは、「未来への希望を示すこと」だが、しかし私はその方法を知らない。
加藤は「彼女」に固執していたが、加藤にとっての「彼女ができること」は、未来への希望の象徴だったのではないか。
「そばに自分を好きな誰かがいること」で、閉ざされた未来の重い扉が少し開かれて、そこからかすかな光が射し込んでくるのではと、淡い期待を抱いていたのではないか。
そう仮定すると、たとえば国家が「彼女以外の未来への希望」を加藤に示せていたなら、加藤は凶行に及ばなかったかもしれない。
それはともかくとしても、私は加藤を哀れに思う。
加藤を今回の事件へと駆り立てたのは、「自分は世界で一人ぼっち」という、悲壮な世界観である。
しかしその思い込みは、私がかつてこれ やこれ で書いたように、おそらくすぐに打ち砕かれて、馬鹿ではない加藤はごく短期間のうちに真人間になるだろう。
自分を裁くために、膨大な数の人間が、膨大な時間と手間をかけて動く。刑事・留置場の世話係・移送係・裁判官・検察官・弁護人・裁判所書記官・事務官。
「自分のために誰かが動く」という経験は、加藤の目を覚まさせるに違いない。かつて私がそうであったように。
「自分のために誰かが動く」という実感は、「実は自分は一人ではなかったのだ」という気づきにつながる。そしてそのあとに待っているのは、猛烈な後悔と反省だ。
絶対に、加藤は死刑を免れまい。
しかしその瞬間、加藤は猛烈な後悔と改悛の情を抱いたまま、ただの気弱な1人の真人間として刑に処されるはずで、私はそれを哀れに思うのである。
それが7人を殺した人間の責任だろ、と言われれば、私には返す言葉もないが。