パターナリズムの崩壊と新たなパラダイムの形成 | ||Φ|(T|T|)|Φ||    監獄☆日記    ||Φ|(T|T|)|Φ||

パターナリズムの崩壊と新たなパラダイムの形成

 パターナリズムとは父権主義と訳される。

 家長のリーダーシップに、他のメンバーは付き従うという構図だ。

 

 例えば15年くらい前の医療現場では、父権主義が機能していたような気がする。

 インフォームドコンセント(診療に伴う説明と同意)という言葉がちらほら出てきはじめた時期ではあったが、定着はしておらず、「患者の権利」などというものを定めている病院も、ほとんど皆無だった。

 しばしば「密室医療」などと揶揄されてもきたが、診療方針は医師のみがほぼ独断で決め、患者はそれにただ付き従うというスタイルが、ほぼ標準的な医療スタイルだった。

 この時代、同意書なるものはせいぜい手術内容に関するものが1~2枚渡された程度だった。

 

 現在、この「医師によるリーダーシップ」は、ほぼ崩壊している。

 検査ひとつとっても同意書同意書の連続で、入院中に装用する医療用具の説明書や麻酔の説明と同意書、手術に関するものなどが、1回の治療で山のように渡される。

 「治療に患者が参加」するようになったことの、ひとつの側面である。

 

 やはり15年ぐらい前の学校教育でも、父権主義が機能していた。

 学級は家族であり、担任教師が家長であり、生徒は子弟という、言ってみれば「バーチャル家庭」というようなものが、学校教育だったわけである。

 教師が家庭訪問にくれば親はペコペコしていたし、教師の進路指導がその家の第一順位の意思であったような気がする。

 現在は「学校教育に家庭が参加」するようになって、子弟の教育内容に親が苦情を入れる時代になっているらしい。

 

 現在2つの現場に共通して存在するのが、「モンスターペイシャント」「モンスターペアレンツ」という存在である。

 「無理難題要求をする患者・親」ということだが、どこがどうモンスターなのだろうか。

 注意しなければならないのは、「モンスター」と映るのはあくまで医師・教師からの視点からであって、社会共通の概念ではないということだ。当事者以外の人からは、例えば犯罪者のようなわかりやすい「モンスター」ではない。

 

 医療や学校教育でいう「モンスター」というものの実態は、案外、「従来の価値観ではコントロールできない人」というところに納まるのではないだろうか(※)。

 医師・教師は、あくまでも以前からの継続として物事を見ているが、実際には患者は治療に参加をするようになった点で、また親は学校教育に参加をするようになった点で以前とは異なっている。

 しかしその「参加」という行為は歴史が浅いから、その仕方が洗練されていないし、加減の調節を分かっていない。それが時として「無理難題要求」として表出するのではないか。参加を要求されるようになったメンバーも、それはそれでとまどっているのだと思われる。

 このことは「医師」「教師」という、かつて強権的であった職業の人の職場でのみ起こっていることからみても明らかだ。かつての強権では処理できない人々を、欺瞞的に「モンスター」と呼称しているとさえも言えるかもしれない。

 

 こう考えてくると、何もモンスターペイシャントやモンスターペアレントと言われる存在は、社会が悪い方向に変化して出現したものではないし、決して話が通じない人でもないと考えることができる。

 医師が訴訟リスクに怯えるのは仕方のないことだが、しかしその直接的な理由を患者に求めるべきではない。背景は患者そのものにあるのではなく、社会の移行期に必然的に生じた一時的な弊害であるからだ。

 逆に言えば、今までの父権主義下で黙らせておけたものが黙らせておけなくなっただけの話である。

 学校教育に親が介入することについても、要は同じことだ。今まで黙らせておけたものが黙らせておけなくなっただけの話である(※2)。

 

 家父長が一方的に物事を決めてきた場面へのメンバーの参加は、必然的に父権主義を崩壊させる。

 比喩になるが、「旧秩序が崩壊したあとの焼け野原の混乱」というのが、現在の状況ではないだろうか。

 しかし「新参加」はいずれ社会に定着し、トライアルアンドエラーを経たのちに、双方の適切な関わり方や合意、共通認識というものが、そのうち自然に形成されるだろう。

 現在はあくまでも、その移行期に混乱しているだけだ。


 繰り返しになるが、モンスターペイシャントやモンスターペアレントという存在は、恐怖する対象でも忌避すべき対象でもなんでもない。

 現在対応に苦慮している方々には切実な問題であろうが、長期的に見ればこの混乱状況はいずれ必ず解消され、新しいパラダイムを迎えるだろう。

 そしてそこでは父権主義時代の盲目的追従よりもより温かな、相互信頼に基づく人間らしいコミュニケーションで物事を進めることができるようになるはずだ。

 

 なぜ父権主義が崩壊したかということについては、「時代にそぐわなくなった」という点に尽きる。

 聖職だとか仁だとか、父権主義が影響力を行使しうる、抽象的な価値観の影響を強く受けていた現場に、「サービス」という現実的な価値観が持ち込まれるようになったことが大きい。

 「サービス」が金銭的支弁の対価である以上、サービスを受ける側には「当事者としての参加」という権利が与えられたと考えることができる(※3)。

 その意味でいま我々の目の前にある混乱は、いずれ我々の誰もが突き当たり、そしてそれを甘受しなければならなかったことでもある。

 ある立場の人からは「モンスター」と見える人々も出現はしたが、全体としてみた場合、父権主義の崩壊はプラスのできごとではないだろうか。

 限られた人々が一方的に物事を決めて付き従わせていたよりも、コミュニケーションを土台とする双方の納得と合意で物事を進めることは、ひとつの近代化だと考えるからだ。

 

 

(※)「昼間だと混むから夜間の救急外来に来る」というようなことはモラルの問題であって、モンスターペイシャントとは厳密に区別されなければならない。

(※2)こう考えると、「患者様という呼び方が患者を増長させた」などという意見が、まったくの的外れであるということがわかる。

(※3)義務教育は、納税の対価としての「行政サービス」である。