希望のタネ。 | ||Φ|(T|T|)|Φ||    監獄☆日記    ||Φ|(T|T|)|Φ||

希望のタネ。

 最近、宮部みゆきの「火車」を読んだ。

 その中に、最近立て続けに起こった「通り魔殺人」の本質を見抜いているような文章があって、非常に驚いた。

 本間という休職中の刑事が、飼い犬を同級生に殺された小学生の息子に、心中で語りかけている場面である。

 

 「自分の身に降りかかったことを、そういう形でしか“清算”できない人間というのはいるんだよ」

 「これから先、お前たちが背負って生きぬいていく社会には、“本来あるべき自分になれない”“本来持つべきものが持てない”という忿懣(ふんまん)を、爆発的に、凶暴な力でもって清算する――という形で犯罪をおかす人間が、あまた満ちあふれることになるだろう」


 本間のその言葉の後を、息子が引き継ぐ。

 

 「でね、そういう人は、自分の気に入らないことを見つけると、まずそれをぶっこわしておいてから、ぶっこわした理由をでっち上げるんだってさ」

 「えっとね、大切なのは、どんなことを考えたかってことじゃなくて、どういうことをしたかってことなんだって」

 「ひどいことをする人は、自分がどうしてそういうことをするのか、ちゃんと考えたことがないんだって。だからひどいことができるんだって」

 

 「火車」の初版は1990年だから、なんと今より18年も前に、宮部みゆきは一連の「個人的テロ」を「予言」していたことになる。

 文中の少年は当時10歳だから、「お前たちが背負って生き抜いていく社会」である現在は、28歳になっていて、この部分でも加藤らの「大義なきテロリスト」たちの年齢と、シンクロしている。

 だから以上の一連の文章は、現在起こっている問題の解釈に応用できると考えて、差し支えないだろう。

 

 そこで大事になるのが、次の一文だ。

 

 「(犬を殺した)あいつが自分のしたことをよおく考えて、それからあやまりにきたなら、カンベンしてあげなさいって」

 「そうだね。父さんもそう思うよ」

 

 重要なのは「カンベンしてあげる」ということではない。

 「自分のしたことをよおく考えて、それからあやまりにきたなら」という部分だ。

 これは、宮部の言うところの「忿懣を、爆発的に、凶暴な力でもって清算」しようとしている人間であっても、その人間が事を起こす前に、「自分がやろうとしていることをよく考え、反省し、自己矯正できる可能性」を、示しているものと受け取れる。

 すなわち加藤のような人間は、決して先天的な異常者でもなんでもなく、「考え方さえ正しくできれば(自己矯正)」、事件など起こさずにいられただろうというものだ。

 

 ならば、その「自己矯正」のきっかけとなるものはなんだろうか。

 私はかつて、そのきっかけは「希望」だと書いた が、それでは漠然としすぎているし、宮部もそこまでは書いていない。

 

 この作品はクレジットやサラ金などのローン問題がモチーフになっていて、作中で宇都宮健児氏がモデルと思われる弁護士が、「クレサラ問題が深刻化するのは、昭和50年代のサラ金地獄から」と書いている。

 宮部の指摘は当を得ているから、作中の記述や分析は、ここでも現在起こっている問題の解釈に応用できると考えてよい。

 もしそうだとすればその時点から現在まで約30年、宮部の指摘からも18年が経過しているわけで、今の事態は「長い時間をかけて、徐々に社会がおかしくなってきた結果」と言える。

 (しかし30年もの間、政治はいったい何をやっていたのだろうか?)


 「クレジット・サラ金問題」と、「忿懣の、爆発的かつ凶暴な力での清算」との間に、どのような因果関係があるのかはわからないが、私が言うところの「希望」のタネは、あんがいこんなところにありそうな気がする。

 

 その考察は、またあらためて。