平成19年2月15日(木) 入院2日目①
昨日うるさい老人の向かいのベッドの老人に、その老妻が見舞いに来ていたが、「シャンプーを入れてきたつもりがソースを持ってきてしまった」と言って、「ソースなんかかけるものないだろうよ!」と老人が怒り出した。
シャンプーとソースを間違えるとは…。私は吹き出した。
右隣のベッドの人はサエキさんという。私より1つ年上だ。
昨晩、喫煙所でたまたま一緒になったときに、「あの爺さんたちうるさくないですか?」と話しかけてきた人だ。
おしゃべり爺さんは思った以上に常識はずれの人のようだ。
通路側の老人は奥さんが毎日見舞いに来て励まし、食欲がないのに吐き気止めで無理して食べているのに、それでも食事を残してしまう。それを見ておしゃべり爺さんは、「ほら残さないで全部食べなよ。そんなんじゃいつまで経っても出られないよ」などと言ったのだという。信じられない。
今朝も喫煙所で、シャンプーとソースを間違えたという話が出て、私はひとしきり笑い転げた。
そのとき同席していた、インターフェロンで治療中という中年男性が「いいなあ。俺はもう笑う気になれねえよ」と言った。
このあと病室に帰ってインターフェロンを始めると、発熱したり、吐き気がして動けなくなるのだという。
もう1人のおじさんは、あと1年は退院できないと医師に宣告されたのだそうだ。
人は先のことは誰でも分からないものだが、それでも私は恵まれているのだということを、そういう話を聞いたときに思う。
私はといえば、現在9時半を回ったところだが、これから形成外科の外来に呼ばれる。
昨日主治医が来なかったので、外来診察中の主治医と手術の打ち合わせをしてくれという。
私が手術室に向かうのは、だいたい1時半ごろになる予定だ。
気管内送管もする全身麻酔だが、午後8時ごろには離床していいらしい。
朝・昼と禁食禁水で、夜も禁食だが、翌朝はおかゆではない普通食らしいし、まあそんなに心配することはないだろう。
私の左のベッドの男は、ササキさんが言うには「生意気な奴」だという。
「入院してから2週間ぐらい一言もしゃべらなかったというのに、手術して自分が歩けるようになったら急に看護婦となれなれしく話すようになった」ということだ。
たしかに、この病棟には他科の患者も多くいて、ほとんど老人病棟化してしまっているから、男は若いというだけでナースにチヤホヤされがちだ。男は男で、自分はモテているような錯覚に陥る。
同性から見るとそれが気に食わないということもあるのだろうが、私だって気に食わない。
ただそれを差し引いても、夜中の12時過ぎまで続くケータイメールをパタパタ打つ音は、耳障りではある。
若いから、看護と愛情を混同してしまったり、あるいは仕事として行なわれている看護と、愛情を錯覚してしまうこともあるかもしれない。
しかしそれは大方のところ、退院の瞬間に、幻想であったと気づくことになるだろう。
平成19年2月15日(木) 入院1日目②
一服しようかと思ったが、健康増進法の流れで、もうほとんどどの病院にも喫煙所はない。
みんなどこでタバコを吸っているのかとナースに尋ねたら、別棟の救急救命センターの入り口の灰皿で吸っているということだった。
私の入院している病棟からは、100mぐらいあるだろうか。
帰り道下を向いて歩いていたら、2人の医者が私に「お疲れ様です」「お疲れ様でした」と挨拶していった。多分誰かと間違えたのだろう。
売店でT字帯を買った。
15時過ぎ、麻酔科外来に呼ばれる。
麻酔科医師より全身麻酔の説明。その後手術室看護師から同じことのヒアリングと説明。
私の手首には入院早々、名前とバーコードが記載されたリストバンドが巻かれている。私に関わる医療者は、まるで人定質問のように私に名前を言わせると、リストバンドで本人確認をする。
すべてが確認確認の繰り返しだが、これが「絶対に間違いが許されない」場所での危機管理なのだろう。
部屋に戻り、ベッドに寝転がる。
窓際の老人の1人は「明日うちの母ちゃん来ねえんだよ」と言って、10分後、また「明日うちの母ちゃん来ねえんだよ」と同じ話を繰り返している。病院に入院しているとときどきあることだが、とにかくおしゃべりだ。
先ほどは通路側のベッドに息も絶え絶えに座っている、吐き気止めでようやく食事を摂っている老人に、「元気? 元気?」と話しかけていた。元気じゃないから入院しているわけだが…。
私のところにも来て、私のことをあれこれ聞いていった。適当に答えればいいのだが、そうできないのが私で、律儀に答えたが、「それで? どうするの?」とぜんぜん分かっていない。
病院というところは極めて忙しく、「すぐ戻ってきますね」とか「あと15分ぐらいで先生が来ます」という約束が、平気で反故にされ、5分で済む用事に1時間半も待たされたりする。
まるで検事調べのようだ。
若い医者がオペの説明に来た。外来で受診したのとは違う医者だ。
「2人で担当させていただきますから」と言った、その医者の目が泳いだ。コイツがオペするんじゃないだろうな?
ナースが来て、バスタオルを持っていった。「明日手術ですから今晩お風呂入ってもらうんですけど、バスタオル持ってっちゃって大丈夫ですか?」と聞かれたが、無問題だ。
留置場では、手ぬぐい1本で全てを済ませていたのだから。
うるさい老人が「今日は木曜日か」と言って、異様にはしゃいでいる。
渡る世間を見るのだそうだ。
「トイレに行ってゆっくり見よう」と独り言を言いながら出て行ったが、まだ1時間もあるぞ。
平成19年2月15日(木) 入院1日目①
10時半に入院手続きを済ませ、6階の病棟に上がる。
1週間ほどの入院になる予定だが、手提げバッグ1つに荷物をまとめて、簡素さを心がけた。
620号室(8人部屋)に入る。ナースが「今日から入院になる○○さんです」と紹介してくれ、つづいて私も「よろしくお願いします」と言ったのだが、返ってくる返事はない。窓際の2人は老人だ。
ベッドサイドには、引き出しが3段にテーブル、液晶テレビ、セーフティ機能の付いた床頭台(枕頭台=ちんとうだいというところもある)が設備されている。
近くの部屋からは、断続的に老人のうめき声が聞こえる。まさか、夜中も続くんじゃないだろうな。
「入院時に必要な物品」というパンフの中で、前開きの寝巻きとT字帯をまだ揃えていない。T字帯とは越中ふんどしみたいなものだ。
病院内の売店に早々に買いに行きたいが、麻酔科の受診があるということで、ベッドを離れられない。
現在11時半。「もうすぐお食事ですから」ということで、通路側の老人が吐き気止めの薬を飲まされている。
看護助手が給茶に回ってきた。飲み物はお茶か水だ。
「お食事が来ましたのでどうぞー!」と廊下から声が掛かる。この病院では、自分で持ってきて下膳もするようだ。
私は今まで薄味好きを気取っていたのだが、魚、すまし汁、カリフラワー、はるさめ酢の物のどれもほとんど味がしない。それでも塩分7gと書いてあるから、普段けっこう濃い味を食べているのだろう。
足をケガしている隣の若い男は、食べ方がクチャクチャとうるさい。留置場ではいじめられるタイプだ。
ただいま入院中。
じつは現在、ある大学病院に入院中です。
私の腕には以前の交通事故による大きな傷跡があり、それを綺麗にす形成手術を受けるためです。
入院というのはなんだか監獄に似ているなあとは前から思っていて、それを文章化してみました。
次回からしばらくの間続けますので、どうぞご一読ください。
団子とチョコレート
以前保護司にお米を持たせてもらったとき 、保護司は米を粉にして団子を作ったと言っていた。
私はまだ手作りの団子というのを食べたことがなかったので、食べてみたいと言ったら、作っておいてくれた。
冷凍をとかしたものではなくて、「焼き立てを食べさせてあげたいから」とのことで日時を厳密に決め、その時間に私が訪ねていったのだ。
形が不揃いなところが、いかにも手作りという風情がする。
手作り団子はコンビニのものと比べてあまり粘りと伸びがなく、口の中で簡単にほぐれ、タレはしょうゆに少しだけ砂糖が混ぜてあるもので、おいしかった。江戸時代とかの大昔、町の茶屋で町人が食べていたのも、きっと同じ味だったのだろう。
米の粉が団子になるなんて、それが不思議だ。
もともとは普通の串だが、ガスコンロのグリルで焼くから柄は焼け落ちてしまうということで、焼いたものには持つところがない。だから、お皿に箸で食べる。
4本食べて、残りは持たせてくれた。
右はバレンタインのチョコレートだ。
先日の3連休は家にいる対象者が多くて、あちこち回って届けてきたらしい。
「妹さんがいたからお兄ちゃんに渡しておいてね、と渡していたところで本人が帰ってきた」とのことで、その人は最近バイトから正社員登用が決まって、保護司としても嬉しいのだと言っていた。
フランス料理店に就職した人がいて、その人は保護観察期間は終了していたが本人が来てくれと言うので、食事をしにいったらしい。お互いに知らん顔して、一言も言葉は交わさなかったそうだ。
保護観察期間の終了後に保護司が元対象者に直接接触して、動向を探ることは、それがたとえ善意であろうと、固く禁じられている。ただし、元対象者のほうから保護司を訪ねることには、まったく問題はないという。
普通は家族からさえ煙たがられている対象者にとって、人生でかなりの不安定な期間を一緒に過ごしてくれる保護司は、かけがえのない恩人だ。
曇りガラスの嵌まった木の引き戸をカシャンカシャンと叩き、中から「はーいどうぞー!」とこの人の声が聞こえてくると、心の底からホッとする。
落ち込んでいるときには、なおさらだ。
もう放っとけ
義家弘介がFMヨコハマ「義家弘介のY-Y-Y」の関連サイトで、着ボイスを有料で配信していたという 。
その着ボイスとは…。
「携帯に出ないやつは出席停止だ」
「メールを見たやつは出席停止だ」
「こらお前メールを見ろ」
なんかもう、やっぱりこの程度の奴だったんだという感じである。口あんぐり。
「出席停止の問題に関心を持ってほしいという思いがあった」とか、「出席停止をちゃかしたり、再生会議の報告に盛り込むためにしたりしたわけではない」とか見苦しく言い訳しているが、これが遊び半分以外の何だというのだろうか。
いじめによる出席停止とケータイの着ボイスを同じ土俵に上げてしまうこと自体、責任ある立場の人間が考えることではない。
ただまぁこのニュースを最初に読んだときにまず思ったことは、「もう放っとけ」ということだった。
以前長々と考察したとおり、義家弘介はどうにもまともではないのだ。
私は少し擁護もしたが、無駄だったようだ。
言っても無駄、という感じがする。
安倍晋三の任命責任の方を、強く問うべきだろう。
なんか強烈…。
キリンラガーのCMでYMOのRYDEEN 79-07 という曲が流れてるけど、細野晴臣が強烈…。
顔が真ん丸で、なんかの病気だろうか?
CMでも高橋幸宏が坂本龍一にビールをそそぐ腕で、細野の顔を隠しているし…。
IT化の意味とは
先日新聞の投書欄を読んでいたら、30代半ばの会社員が「Eメールは味気ないので、自分はできるかぎり電話で直接話すようにしている」「なるべく手書きのメモを残すように心がけている」というようなことを言っていて、正直驚いた。
Eメールの文字はクセも体温もないただの記号だから、ぬくもりもへったくれもない。
だからもちろん言っていることは一見正しいし、「合理化はアメリカの押し付けである」というような苛立ちも理解できる。
しかしITによる合理化の効果は、一企業の業務の効率化だけにとどまるものではない。
そのことは、少子高齢化社会という観点から説明できよう。
ようするにもう数十年後の日本は生産年齢人口が極端に減少するわけだが(ある試算では今後50年で4000万人減るという)、今の社会構造と膨れ上がった経済を維持するためには極端にIT化を進めて、効率化できる部分は徹底的に効率化していかなければならないのである。
だから今の段階でも、その意味でEメールを使いこなしたり、たとえばアウトルックで(サイボウズでもいいけど)、各人がどこでどうしているかを一元的に把握したり、稟議書や経費をイントラネットで電子決済したり、そういうことが必要なのであって、それはもう必然なのだ。
だから職場や社会のIT化の推進は、もう個人的な好き嫌いでは済まないのである。
今さら誰が「三丁目の夕日」のような、貧しくて不便で不衛生な時代に戻りたいと思うだろうか?
親の確定申告書の作成を代わりに毎年やっているが、しかしあれだけは例外だ。
国税庁のHPは実によくできていて、申告書を作るのも簡単ではあるが、税の計算方法がどうにも複雑すぎるのである。
もちろん見る人が見ればわかるし、税の素人でもよく読めば理解できるが、これからは高齢化社会ゆえ、理解力に劣る年寄りが大量発生する社会となる。そのときに年寄りが正しく確定申告できるかというと、現状のままではおそらく無理だろうと思う。
納税者が申告納税するのではなく、税務署側で納税額の計算まで行なって、最終的に納付書を送付するという形態に変えないと、近い将来確定申告制度自体が、滞るのではないだろうか。
漢検
漢字検定が大人気なのだそうだ 。
私も2級を受けてみようと思って、問題集とまさに「格闘」している。
2級は高校卒業程度の漢字知識水準らしいが、ある意味非常に難しい。
2級の合格率は2割程度なのだという。
漢字を「正しく」読める・書けるというのは、極めて重要ではある。
たとえば社外など外部に出した自分の漢字が間違っていたとしたら、とても恥ずかしい。
恥ずかしいだけではなく、会社や自分の信頼性に関わるものでもある。間違った漢字を平気で書いてくる会社に、安心して物事を頼めるだろうか?
だから自分が正しい漢字を知っているということを客観的に評価してもらうものとして、漢検というのは意味のある資格だと思う。
しかし私が思うのは、漢検の試験内容があまりにも現実社会に即していないのではないかということだ。
OA化、IT化の進んでいる現在、漢字はワープロソフト上でキーボードを叩けば済むことであって、常に自筆する必要性は、ほとんどない。正しい漢字を自筆する必要が仮にあったとしても、辞書を引くなり電子辞書を引くなりして確認すれば、済むことだ。
現実がそうであるのに、漢検は「不要な」知識を問うている部分が多すぎるのだ。
試験用紙やタブレット 上(漢検はCBT=Computer Based Testingといって、特定の会場のPC上でほぼ毎日試験を受けられる仕組みもある)で自筆する漢字は、トメ・ハネ・ハライが厳密に判定される。
ある漢字を示し、そのへんを書かせる問題もある。たとえば「唐」のへんは「口」で、「井」のへんは「二」、「栽」は「木」で、「用」はそのまま「用」だが、こんなことを判断させる問題に、いったいどんな意味があるというのか。
虫食いの四字熟語を完成させる問題もあるが、その四字熟語とは破帽幣衣・勤倹力行・海内無双・富貴利達・鼓腹撃壌・千紫万紅と、こんな感じだ。これが頻出度Aランクだというのだから、いい加減にしてくれと言いたくなる。こんなものを日常的に使う日本人がいるものか。
知識と教養がきちんと身についているかどうかを問われる中高生相手なら、こういう設問も意味があるだろう。しかしPCを日常的に操る社会人には、まったく応用できない知識の習得を強いることになり、それは時間と労力の無駄にほかならない。
それよりも社会人にとって必要なのは、漢字はキーボードを叩けば出てくるものなのだから、むしろその出てきた漢字を正確に判別する能力なのである。
たとえば日本語の「せんせい」には、先生・専制・先制・宣誓と多くの同音異義語がある。こうした同音異義語や、「抄録・抜粋」「承諾・首肯」「排斥・疎外」といった類義語、「応諾・拒絶」「寡黙・多弁」といった対義語を、そのシチュエーションに応じて判別する能力を測定・評価するほうが、社会人にとってはよっぽど有用だ。
漢字の読み書きについては社会人の場合、書く能力よりも読む能力のほうが、必要とされる比率が高い。また書くにしても、PCを使用している前提であれば、トメ・ハネ・ハライに留意する必要はまったくないのである。
だから漢検を真に有意義で有効な資格試験とするためには、上記に代表される知識に特化した「日常的にPCを使う社会人向け」の級も、併設すべきなのである。
「使わない知識」を詰め込んでいる私としては、そう提案したい。
前科者カード
保護観察中には、「連絡カード」、通称「前科者カード」 というのを持たされる。
「13階段」には、常時携帯を義務付けられていると書いてあったから、私もまた律儀にカバンの中に入れて、この2年というもの常時持ち歩いていた。
ところが前回ふと思いついて、保護司に「これ持ち歩かなきゃいけないんですか?」と聞いてみたら、即座に「そんなもの持ち歩かなくていいわよー」と言われた。
「もし持ち歩いて、失くしたらどうするの」、「まぁこれにはあなたの名前は書いてないけど、もしそのカバンごと盗まれたりしたらあなたのものだって分かるし、それはあなたにとって都合のいいことじゃないでしょう」と言う。
「保護観察所のほうでも持ち歩かなくていいってことになってるんですか?」と聞いたら、「そうはなってないけど、私はそれでいいと思う」と言ってくれた。
「連絡カード」は保護観察の記録をつけておくのが第一義であると思うが、保護観察所と担当の保護観察官、保護司の連絡先が記載されていることから、「なにかあったらすぐに連絡するように」という、言ってみれば「名刺的な」意味もあるようだ。
私の場合はもう、携帯に保護観察所と保護司の電話番号が登録してあるから、その意味では連絡先を常に持ち歩く必要もない。だからとりあえずカードは家の引き出しに入れておくことにした。
ちなみに携帯に登録した名称は、保護観察所は○○(地名)、保護司は××さんとしてある。
携帯を紛失することも、十分ありうるからである(ずいぶん前に1回あるし)。
そういえば前回は、またお米を持たせてくれた。4,5キロはありそうだ。
保護司はその日、米を粉にして上新粉にし、団子を作ったのだそうだ。
私はまだ手作りの団子というのを食べたことがないので食べてみたいといったら、「なんだそれだったら、冷凍にしてあるから次のときに作っておいてあげる」とのことだった。