県立大野病院事件(「医療不信」に関する一考察) | ||Φ|(T|T|)|Φ||    監獄☆日記    ||Φ|(T|T|)|Φ||

県立大野病院事件(「医療不信」に関する一考察)

 福島県立大野病院の出産時産婦死亡事件に、裁判所の判断が下った。

 患者の遺族と医師の主張が真っ向から対立したが、その焦点は双方の「医療に伴う危険性の認識のズレ」にあったと思う。

 そうした「危険性の認識のズレ」は、患者の視点から見た場合には、「医療に対する不信感」の一因となる。

 今回はそのことについて考えてみる。

 

 まず、どういう状況で医療不信が起こるかということについて考えると、「医療の結果や経過が思っていたものより悪かった」という場合に、医療不信が起こるといえる。

 医療不信を惹起した事件は、最近では福島県立大野病院事件や東京女子医大事件、杏林大割りばし事故事件、日本医大ワイヤ事件等だから、こうした設備とスタッフの整った地域中核病院や医学部付属病院での医療が「思っていたものより悪かった」ということは、日本人が思い描いている医療の「安全性」が相当に高いレベルにあるということの裏返しでもある。

 

 しかし日本人が医療を安心で安全なものと思い込むようになった理由を、例えば「日本人の死生観が変化した」などというように、患者の側に求めることに私は反対である。

 日本人が医療を安心なもの、完全なものと思い込むようになった大きな理由には、「医療関連業界挙げての印象操作」があったと思うからだ。

 

 例えば「細径のデジタル内視鏡」 に関する広告では、「苦痛が少なくてデジタルだから画像が鮮明、信号処理で小さな病変も発見できる」などと謳う。

 しかしそこでは、検査自体で器官を損傷する可能性や、スキルスなどの特殊な病変を発見できない可能性など、マイナスの面については触れられていない。

 筑紫哲也や鳥越俊太郎のガンを発見したということで話題の「PET検査」にしても同様で、PETで見つけられないガンもあるということは、前提として語られていない。

 製薬会社の広告では、病変写真を載せたり、症状を列挙して、「こうした症状があればお医者さんにいきましょう」 と煽る。

 まるで薬を飲めば治ると言わんばかりだが、副作用の可能性や、薬が奏功しない可能性もあるということについては触れていない。

 

 当の医師たち自身も「日本の医療は世界最高水準」であり、「世界一の長寿は医療の発展による」と言い続けてきた。

 たしかにそれはそうなのだろうが、その反面で誤診があったり、ヒューマンエラーがあったり、術中死や手術直接死があったり、看護における医療事故があったりといった、すべての医療行為には当然に内包されるはずのリスクを、あくまで「例外」として、国民の目の届くところに置いてはこなかったという経緯がある。

 

 私が挙げたのはあくまでごく一例に過ぎないが、このような医療に関する印象操作が長く行なわれてきた中で、日本人は「医療は安全で完全なもの」と「思い込まされてきた」のではないかと思う。

 そうした状況下では、病気になってインフォームドコンセントを受けたり、医療事故の当事者となったりして初めて「医療にはリスクもある」ということを知らされるわけだから、もし思わしくない経過や結果に関して立腹する人がいたとしても、それは当然のなりゆきなのではないだろうか。

 危険性を感じさせる情報からは遠ざけられ、医療は安全であると思い込まされている人が、ある日突然「実は危険なんです」と知らされるわけだから、それが単なる医療者の言い逃れにしか聞こえずに、「話が違う」と立腹する人がいても、それは至極当然であろうというわけだ。

 

 今回の福島県立大野病院の事件の本質は、まさにそうした医療者側と患者側の「医療に伴う危険性の認識」が乖離していたがゆえの紛糾である。

 医療者側に言わせれば「しょせんは素人だから」「専門知識がないから」ということになろうが、私はそうではないと思う。

 日本人が素人だから問題の本質がわからないのではなくて、思い込まされてきた医療の安全性を前提としているから、本質にたどり着けないのである。

 要するに今日の「医療不信」は、「国民の医療に対する無知」に起因するわけでも、あるいは「死生観の変化による自分が不死身であるかのような錯覚」に起因するわけでもなく、まずは「安全性ばかりを強調しすぎた医療界の戦略」に最初の問題があったのではないかと思う。

 小松秀樹が「医療の限界」において、「医師側も安易なリップサービスをやりすぎたところがあります。患者に安心・安全の幻想を振りまきすぎました(23頁)」と、わずか2行にも満たない文章で姑息に言い逃れたことこそが、今日の混迷の最初にして最大の原因であるわけだ。 

 

 国民は、普段は甘い顔をしておきながら、いざ問題が発生すると途端に冷酷な一面に豹変する「医療」という「怪物」を、もはや信用していないのではないだろうか。

 冷酷な一面に豹変するとは、東京女子医大事件にみられるようなカルテの改ざん、虚偽説明のようなありとあらゆる手立てを講じて、自分たちを有利に、患者を不利に仕立て上げる姿勢のことだ。

 あるいは、普段は日常的に新しい治療法を喧伝して希望のみを伝え、実際に医者にかかって生命の危険が予測される場合になって、突然「医療にも限界はある」などと言い出す姿勢だ。

 そのようにしばしばみられる「医療の豹変」が、「医療者に激しい敵対心を露わにする患者が増えた」ということの、理由のひとつでもあると思う。しかし患者にしてみればそれは、医療という怪物に対しての「自己防衛本能の発露」にほかならないのではないか。

 

 職業医師と一般国民の間の「医療に伴う危険性の認識のズレ」を放置している限り、福島県立大野病院のような問題は、今後何度でも起こってくるだろう。

 国民が「医療行為に伴い通常考えられる危険性」を、真に身近なものとして理解しない限り、「どうにかできたはずだ」という怒りにも似た感情は引き続き噴出するであろうし、その持て余した感情は代理処罰への期待となり、捜査機関が医療現場に介入していくことを、さらに強く望むようにもなるだろう(当然だがこの捜査機関に対する期待には、医療界の身内に甘い体質や、隠蔽体質といったものへの「断罪」の期待が含まれる)。

 国民が望んだ捜査機関の介入は医療現場を萎縮させ、それはリスクの大きい診療科の忌避や、小松がいうところの「立ち去り型サボタージュ」を招来することになり、日本の医療をじわじわと崩壊させていくであろう。

 

 そうした状況の打開策は、2つある。

 

 1つは、医療関連業界みずからが「医療に関連する危険性は程度の差こそあれ、すべての医療行為に内包されている」ということを、あらゆる機会を捉えて、国民の目に触れさせることだ。

 それは「病院に行ったからといってすべての病気が治るわけではない」、「医療には命の危険が伴う」、「検査を受けたからといって病気が必ず発見できるわけでも、また治療を開始したからといって必ずしも治癒するわけではない」という、ごく単純な事実の周知徹底である。

 「そもそも医療行為は危険で不確実なものなのだ」という前提としての価値観が、日本中で共有されて初めて、医療をめぐる問題の国民的論議が可能になるのではないか。

 その効果は例えばゲフィチニブ投与のメリットとデメリットが冷静に話し合えるようにもなるであろうし、呼吸器外しや延命治療の是非が冷静に話し合えるようにもなるであろう。

 「前置胎盤」の危険性が、「当然ある」ものとして理解されるようにもなるであろう。

 このように「医療行為は安全でもないし確実でもない」ということを周知徹底させることのメリットには、計り知れないものがあると思う。

 

 もう1つは、「医療安全調査委員会(第三者委員会)」を、早急に設置することである。

 第三者による紛争事例の専門的な検討は、行なわれた医療の透明性を確保し、患者に対しては公平性を担保するが、それだけではなく、この制度は「患者の医療者に対する性急な告発」の抑止力としても機能するだろう。

 ただしこの委員会には、「不審が認められる場合の捜査機関への通知権」を、必ず与えなければならない。

 「捜査機関が介入すれば現場は萎縮する」などと言って医療界は猛反発しているが、「手段としての刑事事件化」がなければ、明らかな医療過誤であっても、委員会の段階で闇に葬られてしまうからだ。

 抗がん剤を10倍量投与して患者を死亡させた医師がいたり、点滴に牛乳や消毒薬を混合して患者を死亡させた看護師がいたりなど、ときどき信じがたいようなミスを起こすのが日本の医療界である。

 だから「手段としての刑事事件化」がなければ、国民の医療安全は担保されずに、悪い言い方をすれば医療者の「やりたい放題」になってしまう。

 そもそも「捜査機関の介入による現場の萎縮」と、「医療ミスとその結果に対する責任」は、まったくの別物であるはずだ。明らかなミスにより患者を危険に陥れた医療者は、その責任は負わなければならない。

 

 逆に言えば現状では、「捜査機関への通知権が認められた第三者委員会」が設置されない以上、捜査機関は医療現場への介入に及び腰であってはならないと私は考える。