「誰でもよかった」のはあたりまえ | ||Φ|(T|T|)|Φ||    監獄☆日記    ||Φ|(T|T|)|Φ||

「誰でもよかった」のはあたりまえ

 加藤ら「大義なきテロリスト」たちが一様に口にする言葉に「誰でもよかった」というのがあって、その言葉が意味する無差別ぶりに社会は恐怖しているようだ。

 

 だが「大義なきテロリスト」の犯行動機が、宮部の言うように「忿懣の、爆発的かつ凶暴な力での清算」だとしたら、「誰でもよかった」のは、むしろあたりまえなのではないだろうか。

 「自分の希望が奪われた」という忿懣は、あくまで「社会全体を発生源として自分に生じた怨念」であって、その「社会全体に対する暴力的な清算」は、特定の「誰か」や「何か」に向けられたものではないからだ。

 では、なぜその「暴力的な清算」の対象が、たとえば構造物や団体などではなく、「不特定の個人」だったのであろうか。

 

 加藤ら「絶望者」の一部は、自分の人生が思い通りにならない強大な不満から、思考が極めて視野狭窄的になっていた。

 しかもその「強大な不満」を抱くことになった理由には、一部の強者が富を寡占する「格差」や、「超就職氷河期に生まれてしまったこと」、「日雇い派遣の蔓延」といった、努力したところで報われない、自分ではどうすることもできない外部的要因が大きかった。

 そうした外部的要因に翻弄されたあげく、「自分の人生が軽いように、他人の人生も軽い」という、誤った結論を導き出すことになった人たちが、「人間を対象とした大義なき自爆テロに走った」ということが、一連の事件の本質のように私には思える。

 

 ある意味それは現代の「働く貧困層」の一般的な認識であり、だからこそ加藤がネットにおいて「神格化」されるほどの共感を得たのであろう。

 “良識ある”評論家などは、「若者よ、加藤を神格化するな」とか「うまくいかないことを他人や社会のせいにするな」などというような、もっともなことを言っているが、しかしそれは本質を見据えていない諫言であると私は思う。

 最大の問題は、現代を生きる人間が、従来ならば自分で解決してきたはずの「忿懣」を、もう自分では解決できなくなっているということなのだ。

 彼らが抱いている「絶望」は、酒をあおったり、カラオケで騒いだり、バッティングセンターで球を打って憂さを晴らせる程度の「忿懣」ではなくなっている、ということである。

 

 では無差別通り魔殺人への「スイッチが入る人間と入らない人間」はどう違うかということであるが、私の個人的な考えでは、それは「親しい他者の有無」が大きいのではないかと思う。

 理解ある親や親友、恋人、あるいは保護司といった「親しい他者」を持つ人間は、そのコミュニケーションを通じて、自分の内部に滞留したエネルギーや悪しき考えを、適切に放出したり軌道修正したりできるが、彼らには「親しい他者」がおらず、それゆえ、視野狭窄的で極端に暴力的な思考に陥ってしまったのであろう。

 「自分以外の外部」に、自分の人生を文字通り踏んだり蹴ったりに蹂躪されたあげく、「視野狭窄的で極端に暴力的な思考」を持つようになり、孤独あるいは孤立ゆえにそのエネルギーを適切に放出したり、軌道修正することができず、ついに通り魔殺人へのスイッチが入ってしまったのである。

 

 何週間前だか忘れたがフジ系の「サキヨミ」で、「加藤らは“特殊な人間”か“普通の人間”のどちらだと思うか」という投票アンケートがあって、4:6ぐらいの割合で“普通の人間”という回答が上回っていた。

 結果はともかくとして、実はこのような設問にはあまり意味がない。

 どんな場合でも犯罪は「正常なるものからの逸脱」であるものだから、その意味では犯罪者は常に「特殊」だからである。

 ついでに言えば、「普通の人間が唐突に信じられない事件を起こす」というような趣旨の報道は、無用な社会不安を煽るだけであって、弊害のほうが大きい。

 それよりも問題にするべきは、現代では「普通」と「特殊」を隔てる垣根が、あまりにも低くなっているということなのだ。

 

 仮に相談できる親しい他者がいなくても、一緒に憂さ晴らしができる友達がいなくても、社会に「希望の光」さえ見えていたなら、彼らが極端な「忿懣の、爆発的かつ凶暴な力での清算」に走らなかったであろうことは、強く推定できる。

 逆に言えば、「普通」と「特殊」の間の垣根を恐ろしいまでに低くしているのは、現代社会に蔓延している「再生不能な絶望」なのである。

 

 「これから先、お前たちが背負って生きぬいていく社会には、“本来あるべき自分になれない”“本来持つべきものが持てない”という忿懣(ふんまん)を、爆発的に、凶暴な力でもって清算する――という形で犯罪をおかす人間が、あまた満ちあふれることになるだろう」


 という言葉の後に、本間はこう続ける。


 「そのなかをどう生きてゆくか、その回答を探す試みは、まだ端緒についたばかりなのだ」

 

 繰り返しになるが、宮部がこの言葉を記したのは1990年だ。

 18年前にも、現在のこの状況は「見える人には見えていた」ということである。

 

 こういう状況になるのはずいぶん前からわかっていたはずなのに、何もしなかった人たちの責任は、限りなく重い。