平成19年2月26日(月) 退院日
朝、弱った老人のところに医師が来た。
医師は、「胸の音もよくなってきてるし、熱も下がってきてますから頑張りましょう」と言って行った。
老人は数日来明らかに弱ってきているから、医師の言葉は嘘だ。
私は嘘や不誠実さは悪いことだと考えているが、だがこういう場合本人にたとえば「もう助かりませんから覚悟しておいてください」と真実を告げることは、嘘をつかないことや誠実さとイコールなのだろうか。
医師の言葉は、「優しい嘘」とでも言うべきものなのかもしれない。
冷酷な真実を告げるよりも優しい嘘をつくほうが救いになることが、人間には時としてあるのだろうか。
私の主治医も回診に来た。
しばらくの間は傷あとにテープを貼って、その上からサポーターをつけて過ごすようにということだった。
昼飯を食って、T老人とS老人にあいさつをした。
弱った老人へのあいさつは、今朝方に済ませた。来たときにも目礼を交わしていたから、去るときのあいさつも礼儀だろうと思ったからだ。
ベッドの横にしゃがみ、お世話になりましたが今日で退院しますと言うと、そうですかおめでとうございますと細い腕をやっと出して握手をしてくれた。
その手が暖かかった。死に近づいている人間は手も冷たくなっているのだろうと思っていて、そのつもりで握手をした私はたじろいだ。同時に、たしかにこの人はまだ生きているのだと思った。
生と死は対極であって、その間の壁を安易に超えてしまうことは、生きている人間には許されないのだとあらためて思う。
生を自分でコントロールできないように、人間にはみずから死だけを選び取る権利はない。
死とは、そのときがきたら甘んじて受け入れるものだ。
昔、村上春樹は、「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」と書いたが、それは間違っている。死は生の対極であって、決して両者が相容れることはない。
生きている人間には、その与えられた命を生き抜く義務がある。それを途中で放棄してしまうようなことは、生命を創造したものに対する罪だ。
退院時処方の薬を受け取り、会計を済ませ、病院を出た。
大きく息を吸い込んだ。
これで私はまた、日常へと戻るのだ。