平成19年2月25日(日) 入院11日目 | ||Φ|(T|T|)|Φ||    監獄☆日記    ||Φ|(T|T|)|Φ||

平成19年2月25日(日) 入院11日目

 通路側の老人は、私が入院している間にずいぶん弱っていた。

 私が来たころは、吐き気止めを用いながらもなんとか自分で食事を摂っていたが、ここ数日は食事もままならずまどろんでいるばかりだ。

 肺炎を起こして肺機能が落ちているようで、看護師が頻繁に鼻の酸素チューブを確認して行く。

 奥さんは毎日来ていたが、最近はそれに加えて娘と孫が来たり、田舎から女のきょうだいが来たりしている。

 先日は奥さんと娘さんが来て、娘さんはベッド柵の足元から身を乗り出すようにして、父親の寝顔を長いこと見つめていた。

 多分、お別れの儀式だ。

 

 人間は、どれほど長い間、こうして別れを繰り返してきたのだろう。

 近しい誰かが突然いなくなってしまった喪失感も厳しいものがあるが、いなくなることを知っていて見送る覚悟にはどれほどつらいものがあるだろうか。

 

 昔、2年目の看護師に人が死ぬことをどう思うかと聞いたことがあった。

 彼女は「最初はつらかったけどもう慣れた。本当は慣れちゃいけないんだろうけど」と言っていた。

 死というものに対して、鈍感であったり冷淡であったりすることは、人としていいことであるわけはないが、私は彼女のような感覚は別に不謹慎であるとは思わないし、むしろ当然だろうなと思う。

 病院における死は特別なセレモニーではなく、毎日繰り返される日常風景の1コマにすぎないからだ。

 ただし、家族にとってはかけがえのない一瞬なのだから、日常と非日常に変え、別れをかけがえのない美しい思い出にする努力は、医療人はいくらし過ぎてもし過ぎることはない。

 

 いつだったか、ずいぶん前にかかりつけの病院で、葬儀屋が迎えに来た風景を見た。

 主治医と3人の看護師が見送っていて、若い看護師の1人は本気で泣いていた。

 心が、保たないだろうに…。