無知は罪である。
何かについて知らないということが、罪になる場合があると思う。
罪というのは法律上の罪ではない。人としての罪だ。
たとえばある父親が、無知であるために「ハウスダストアレルギー」ということについて知らず、激しいクシャミで苦しむ息子を医者に掛けなかったらどうだろう。この父親は罪だ。無知であるがゆえの罪だ。
この父親とは、私の父親である。私の父親は私が子どものころ、私の「クシャミの原因はほこりの出る毛布のせいだから替えてくれ」という訴えを、「猫なんか飼ってるからだ」と言って、聞き入れなかった。無知だったのだ。
それと同じようなことは、今回の入院でいろいろ見聞した。
私とそう年の違わないある男性は、「脚の腫れ」を放置していたのだそうだ。
ジーンズが穿けなくなるほどに腫れあがった脚を放置し、自力で動けなくなってとうとう救急車で搬送されるまで放置した。
原因は糖尿病によるものだった。
血糖値の高い状態が続くと、それを下げるためのインスリンが膵臓から分泌されるが、インスリンは「毛針」のようなもので、体中の血管を傷つける。その結果細い部分の毛細血管から破壊されてゆき、足先が壊死してきたり、目が見えなくなったりする。
そういう場合老人なら脚を切断することになるが、彼はまだこの先足無しで生きていくのは大変だから、体の至るところから採皮し、腐ってきた皮膚と貼りかえるという手術を、延々と繰り返している。
先日見舞ったときには片目に眼帯をしていたから、おそらく片目は失明してしまうだろう。
彼は、「やっぱり医者は早め早めだな」と嘆く。しかし厳しいようだが、今さら嘆いても遅いのだ。
彼は、「糖尿病」について「知っている」だけでよかった。
もし彼が糖尿病について知っていたなら、きっと早めに病院に掛かっていたはずだからだ。
ALS(筋萎縮性側索硬化症)の60代男性がいた。
肩が上がりづらくなったので町医者に行ったところ、「五十肩だ」と言われたという。
そのまま放置していたら両腕が上がらなくなってきて、別の病院に行ったところ、親指と人差し指の間は本来膨らんでいなければならないのにへこんでいるのを見た医師が、「もしかしたら大変な病気かもしれない」と言ってこの大学病院を紹介し、やっとALSであることが分かったのだ。
最初の医者もALSについて無知ではあったが、もしこの人自身がALSについて「知って」いたら、もっと早く先端研究にたどり着けたはずで、その意味でこの人自身もALSについて「無知」だったのだと思う。
T老人は顔面の悪性腫瘍で長期入院を余儀なくされたが、当初はただのできものだと思って放置していたのだという。
この人もやはり、悪性腫瘍という病気があるということについて無知だった。
長嶋茂雄巨人軍終身名誉監督の運転手は、長嶋氏が起きてこなかったことを放置したことについて、「疲れているのでもう少し寝かせてあげようと思った」と言ったのだという。
この運転手は脳卒中について無知だったから、判断を誤ったのだ。
ある看護師は、巡回中に大いびきをかいて寝ている私を起こした。
寝ぼけ眼で、はい? と返事をすると、「失礼しました。大きないびきをかいておられたものですから」と言った。
彼女は、「くも膜下出血の初期症状は大きないびきをかく」ということについて「知っていた」から、私を起こしたのだ。
処置が早ければ、救命の可能性も回復の可能性も、飛躍的に高まる。
これが「何かについて知っているということ」、すなわち「無知ではないということ」だと思う。
無知の反対は、物知りということではない。
「何かについて知っている」ということだ。
当たり前だが、世界の全てのことについて知ることなどできはしない。
しかし「知っていさえすれば防げたトラブル」など、この世の中には無数にある。
そうしたトラブルの可能性の減少を怠り、何かについて無知でいることは、明らかに罪だ。
だから私は、「何かについて知る」ということについて、生涯貪欲であり続けたいと思う。
私がこのブログのサブタイトルに、村上龍の「いちばん大切なのは知るということだ」という言葉を引いたのには、そういう理由がある。