平成16年6月8日(火) 勾留29日目
宅建のテキストが差し入れられた。正確には、男にだが。
私の親族が差し入れをしてくれないのを知って、「何か欲しい本があったら言って」と、私の代わりに奥さんらしき人から受けてくれたのである。
だから正確にはそれを借りるという形だが、とてもうれしい。
なにせ時間だけは、腐るほどあるのだから。
入れられた本はテキストとは呼べない、基本書以前の入門書であるが、ぜいたくなど言えようはずがない。
貪るように読んでいる。
洗面の立会いに来た刑事が、「いやーここは涼しくていいね」と言うので(他の部署はまだらしい)、「代わってあげましょうか?」と答えたら、ムッとしていた。
戦前から戦中の一時期、日本でも陪審員制度が取り入れられたことがあった。
しかしそれは、実施後15年で頓挫した。理由は、「国風になじまない」というものであった。
「国風」とは、何だろう?
奉行所に端を発する近代日本の裁判は、「お上」がするもので、庶民は関わるものではない、という意識が強かったのだろうか。
民衆が、自分たちの力で民主主義を獲得したことがない国民性という点からも、説明されたりする。
それもあるだろう。
しかし私が思うのは、戦中モノがなく、食うや食わずといった状態で、誰が他人の裁判に関わるほどの経済的、精神的余裕があっただろうか、ということである。
当時に比べ、生活は比べようがないほど豊かになったし、人権意識も、また権利意識も発達・発展し、裁判員制度の基礎的土壌は整っている。
だが経済面では、どうだろう。経済情勢の低迷と混迷という点では、往時をしのばせるものがある。また雇用形態も、複雑化の一途をたどっている。
そうしたなかで、例えば日給月給の人間が、「他人の裁判に出れば自分の給料が減る」という事態になるとすれば、誰が好き好んで赤の他人の裁判に関わろうとするだろうか?
それを補うのはやはり、「雇い主は裁判員に選ばれた人間には有給休暇を与えなければならない」「裁判員になることで不利益を与えてはならない」といった、労働法上の法整備も重要なのではないかと考える。
【今日の雑感】
最近カタい話題が多いですね…。
「論じるつもりはない」とか書いときながら、論じちゃってるし。
しかも社労士試験には何の関係もないことばかり…。
中小企業のタコ社長相手の社労士という資格者目指してる人間が、天下国家を論ずるっつーのはナンセンスだよなぁ。